陶器を愛する人ほど、向付を「刺身専用の器」と決めてかかって、2万円以上の名碗を眠らせたままにしています。
辻嘉一(1907〜1988年)は、京都の裏千家専門の茶懐石料理屋「辻留」の二代目として、日本料理の世界に半世紀以上君臨した人物です。父・辻留次郎が1902年(明治35年)に京都・東山で創業した「辻留」を受け継ぎ、1954年(昭和29年)には東京・銀座、赤坂にも出店を果たしました。料理人として腕を磨く傍ら、テレビ・ラジオへの出演や著作活動にも積極的で、生涯に100冊近い著書を世に送り出しています。
その集大成のひとつが、婦人画報社から刊行された『懐石傳書(懐石伝書)』全7巻です。初巻にあたる「向附」が1964年(昭和39年)に刊行され、その後「焼物」「煮たもの」「椀盛」「八寸・口取」「点心」「御飯と味噌汁」と順に刊行されました。それが1巻です。各巻には福田平八郎・山口蓬春・前田青邨・熊谷守一・梅原龍三郎・棟方志功・杉本健吉といった当代一流の画家が装画を担当しており、料理書でありながら美術書としての風格をも備えています。
つまり料理の本です。しかし内容は料理レシピにとどまりません。各巻を通じて、器のあり方、盛り付けの哲学、季節感の演出まで踏み込んで解説されている点が、陶器に関心を持つ読者にとって特別な価値を持ちます。
初版から第17〜23版まで重ねた版を数える巻もあり、昭和40〜50年代の日本料理ブームの中で広く読まれてきました。現在、古書市場では全7巻セットが1万〜1万7千円前後で流通しており、単巻でも1,000〜2,000円程度で入手できます。絶版となっている現在でも古書として根強い需要があることが、その内容の普遍性を物語っています。
CiNii 図書「懐石傳書」の書誌情報(辻嘉一著・婦人画報社)
辻嘉一が残した言葉の中で、陶器好きにとって特に刺さるものがあります。
「食器というものは、そのままで見たときは、どこかに物足りなさを感じるくらいでないと料理が引き立ちません。」
これは、器それ自体の主張が強すぎると、盛り付けた料理が負けてしまうという意味です。派手な絵付けや個性的な形状の陶器は、単体で眺めると確かに美しい。ところが実際に料理を盛ると、器と料理が喧嘩してしまうケースが少なくありません。
この考え方は、陶器コレクターにとって重要な示唆を含んでいます。美しい器を買い揃えても、料理を引き立てるという本来の役割を果たせなければ、机上の美術品にすぎないということです。辻嘉一が「引き算の美学」を説いた背景には、北大路魯山人の「器は料理の着物」という思想があります。
魯山人が遺したこの言葉は、三代目・辻義一が鎌倉の魯山人邸で1年間修行した際にも深く刻まれています。料理と器は主従関係ではなく、互いが引き立て合う関係にある。これが「辻留」の器観の核心です。
陶器好きが陥りやすいのは、コレクションとして器を所有する視点に偏ることです。辻嘉一の『懐石伝書』が伝えるのは、器は食卓で使われてはじめて完成するという考え方です。それが原則です。
| 器の性質 | 懐石料理での使い方 | 陶器の産地例 |
|---|---|---|
| 素朴・土感がある | 秋冬の煮物・御飯もの | 信楽焼・備前焼 |
| すっきりした白磁 | 夏の向付・酢の物 | 有田焼・波佐見焼 |
| 渋みのある織部 | 秋の焼物・八寸 | 美濃焼(織部) |
| 温かみのある飴釉 | 冬の椀盛・蒸し物 | 萩焼・丹波焼 |
『懐石伝書』の第4巻「向附(むこうづけ)」は、陶器に興味を持つ人にとって特に読み応えのある巻です。向付とは、茶懐石の膳において飯碗と汁椀の「向こう側」に置かれる器のこと、もしくはそこに盛られた料理を指します。
サイズには厳密な規定はなく、33〜36cm四方のお膳にのる小ぶりの器であれば、材質も形状も問いません。刺身だけでなく、なます・酢の物・浸し物など季節の一品を盛ることができます。意外ですね。多くの陶器好きが「向付=刺身専用」と思い込んでいますが、実は汎用性の高い器なのです。
懐石料理における向付の面白さは、そのデザインの多様性にあります。茶事の趣向や季節感を表す役割を担っているため、魚・葉・花・貝など自然のモチーフを模した個性的な形状のものが数多く存在します。料亭では作家に発注するケースも一般的で、現代陶芸家の作品が実際の懐石の場で活躍しています。
向付の組み合わせ方にも独自の美意識があります。汁椀が漆器であれば、飯碗を陶器、向付を磁器にする——つまり、材質をあえてそろえないのが和食器の基本です。統一感ではなく「取り合わせの妙」を楽しむという発想は、器を複数持つコレクターにとって大きなメリットになります。手持ちの器が多様であればあるほど、取り合わせの幅が広がるということです。これは使えそうです。
🍶 向付選びの3つのポイント(懐石伝書の視点から)
- 季節感を第一に考える:春は淡い色合いの白磁や染付、夏は青磁やガラス質の涼しげな器、秋冬は信楽・備前など土の温かみが感じられる陶器が映えます。
- 料理より器を「小さく」選ぶ:盛り付ける料理の分量は器の7〜8割を目安に。余白を意識することで料理が引き立ちます。
- 形の個性を恐れない:異形(変形皿・片口・なまこ形など)は和食の取り合わせで真価を発揮します。単体で飾るより食卓に出してこそ器の魅力が開きます。
『懐石伝書』の「焼物」の巻は、懐石コースの中でもひときわ存在感のある一品を扱います。一汁三菜の「菜」のひとつである焼物は、季節の魚や肉を焼いて供するもので、茶懐石における重要なコースです。
ここで知っておきたいのは、焼物の器に陶磁器が使われるようになったのは明治中期以降だという事実です。それ以前は「重引(じゅうびき)」や「引菜(ひきな)」と呼ばれ、二段重ねの塗箱(漆器)に盛り付けるのが正式でした。つまり焼物料理に陶器を合わせる様式は、懐石料理の長い歴史の中では比較的新しい習慣なのです。驚きですね。
現在ではあらたまった茶事のときのみ塗箱が使われ、通常の懐石では陶器・磁器の皿が主流です。この経緯を知ると、焼物に使う器の選択肢が広がります。伝統に縛られすぎず、自分の持っている陶器の中から「料理が引き立つ一枚」を選ぶ自由があるということです。
辻嘉一が語った「目で食べ、鼻で食べ、耳で食べ、心で食べる」という言葉は、器の選択が料理体験全体に影響することを示しています。焼魚を白い磁器の皿に盛れば清潔感と繊細さが際立ち、備前焼や信楽焼の素朴な土ものに盛れば野趣と力強さが生まれます。この使い分けを意識するだけで、手持ちの陶器の活用方法が大きく変わります。陶器だけは例外ではなく、磁器・漆器との組み合わせの中でこそ陶器の魅力が際立つのです。
🔥 焼物の器選びで意識したいこと
- 土ものの陶器(備前・信楽):秋〜冬の根菜や川魚の焼物に合わせると、素朴な食材の持ち味が引き出されます。
- 白磁・青磁(有田・波佐見):夏の鮎・ハモなど淡白な食材の焼物に合わせると、涼しさと繊細さが際立ちます。
- 器の余白を意識する:焼物は一尾・一切れを一枚の皿に盛るのが基本。大きめの皿にゆったりと盛ることで、料理が「呼吸」します。
陶器に興味を持つ人が『懐石伝書』を手にする理由は、料理を作るためだけではありません。器の使い方・組み合わせ・盛り付けの美学を体系的に学べる資料として、その価値は今も高く評価されています。
古書市場での現在の流通状況を見ると、全7巻セットはメルカリ・Yahoo!オークション・日本の古本屋などで1万〜1万7千円前後の価格帯が中心です。単巻では1,000〜2,500円程度で入手できます。発行時の定価が全7巻で約2万2,400円(昭和46年当時)であったことを考えると、古書価格として決して高くはありません。
特に単巻であれば、自分の関心テーマに絞って手に入れるのが賢明です。向付に関心があれば「向附」の巻を、焼物の器選びを学びたければ「焼物」の巻を、という使い方ができます。
辻嘉一は生涯に残した著書の中で、器と料理の関係について一貫した哲学を持ち続けました。その思想の核心は、「料理は口で食べることはもちろんですが、目で食べ、鼻で食べ、耳で食べ、心で食べます」という言葉に集約されています。
陶器を集める喜びと、それを実際に食卓で使う喜び。この2つをつなぐ橋渡しとして、『懐石伝書』は今もその役割を果たしています。料理本として手にするだけでなく、器の選び方・取り合わせ・季節感の演出を学ぶ実践的な参考書として活用することが、この名著の正しい読み方といえるでしょう。
📖 懐石伝書を活用するための3ステップ
- ステップ1:まず「向附」か「焼物」の巻から:陶器好きが最も関心を持ちやすい器の話題が豊富で、最初の一冊として最適です。
- ステップ2:手持ちの陶器と照らし合わせながら読む:本の中で紹介される器の特徴・産地・季節感を、自分のコレクションと比較することで理解が深まります。
- ステップ3:料理を実際に盛り付けてみる:辻嘉一が繰り返し述べるように、器は使われてはじめて完成します。日常のひと皿から懐石の美意識を取り入れるのが条件です。
「辻留 食の美 器の美」(中央公論社、1985年)も辻嘉一の著作として重要で、器そのものへの深い考察が収められています。絶版ですが古書で500〜2,000円前後で見つかることがあります。『懐石伝書』と合わせて読むと、器に対する理解がさらに広がります。
「辻留・辻嘉一 語録 料理秘伝」の解説記事:器と盛り付けにまつわる名言多数