北大路魯山人は1959年(昭和34年)12月21日、横浜十全病院(現:横浜市立大学附属市民総合医療センター)で76歳の生涯を閉じました。同年11月4日、鎌倉の自宅で尿閉を発症し緊急入院、前立腺の摘出手術を受けましたが、その後吐血症状が起き、再手術の際に末期の肝硬変が判明しました。もはや手遅れの状態であり、そのまま閉腹して死を待つばかりとなったのです。
参考)北大路魯山人 - Wikipedia
死因は肝臓ジストマ(現在の「肝吸虫」)による肝硬変とされています。この寄生虫は一度体内に入ると20年以上も生存し続け、多数の成虫が寄生すると肝臓の機能に障害を起こし、肝硬変や胆管細胞がんを引き起こすことがあります。魯山人は晩年、前立腺肥大症や胃潰瘍で入退院を繰り返しており、体調は徐々に悪化していました。
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1959年5月、東京国立近代美術館で開催された「現代日本の陶芸展」に姿を見せた際には、すでに自力で歩行できない状態でした。同年10月の京都美術倶楽部での「魯山人書道藝術個展」が、彼にとって最後の展覧会となりました。この頃、魯山人は作陶を諦めて書道での再出発を期していましたが、その夢は叶いませんでした。
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魯山人の肝硬変の原因となった肝吸虫の感染経路については、諸説があります。一般的には「生煮えのタニシを好んで食べたため、肝吸虫の感染を受けて肝硬変になった」と言われています。しかし、肝吸虫の中間宿主となる小さなタニシは食用に適しておらず、美食家の魯山人が食べるはずがないという指摘もあります。
参考)https://tabelog.com/rvwr/000258993/diarydtl/55075/
実際の感染経路としては、二次宿主である鮎やフナ、タナゴなどの淡水魚の刺身を食べたためではないかという説が有力です。肝吸虫は、コイやフナなどのコイ科の淡水魚を生食や加熱が不十分な状態で食べることで感染します。モツゴ、ホンモロコ、ビワヒガイなど、琵琶湖の多くの淡水魚からもメタセルカリア(肝吸虫の幼虫)が検出されています。
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魯山人は「鮒を生で食べたせいか、晩年には肝臓ジストマにかかり苦しみ、肝硬変で亡くなった」との記録も残されています。美食家として素材の持ち味を最大限に活かすことにこだわり、新鮮な淡水魚を生や加熱不十分な状態で食すことが多かったことが、最終的に命取りとなったのです。肝吸虫症は東アジア一帯に広く分布しており、日本でも淡水魚の生食文化がある地域では注意が必要な感染症でした。
参考)https://www.aozora.gr.jp/cards/001403/files/50011_37666.html
魯山人は大正から昭和にかけて、書・篆刻・料理・陶芸など幅広い分野で活躍した芸術家でした。特に美食家・陶芸家として知られ、「うつわは料理のきもの」という言葉を遺しています。1925年に開設した会員制料亭「星岡茶寮」では、総合ディレクターのような立場で、食事のための環境作りと料理人の指導、食器その他の備品の吟味・手配などを一手に引き受けました。
参考)コレクション|吉兆庵美術館
魯山人の料理哲学は「料理というのは、どこまでも理を料ることで、不自然な無理をしてはいけない」というものでした。「味に自信なき者は料理に無駄な手数をかける」とし、新鮮な食材に極力手をかけず、その素材力を活かした料理を提供しました。また、一品一品運ぶスタイルを採用し、日本におけるコース料理の先駆けとなりました。
参考)[第141号] 北大路魯山人の食と美の精神に今学ぶこと href="https://www.gyokusendo.com/column01_dento/6437" target="_blank">https://www.gyokusendo.com/column01_dento/6437amp;#…
「美味い料理」を食べることは決してぜいたくではなく、むしろ「美味い料理」を食べようとしないことのほうがはるかにぜいたくであるという転倒した考えも持っていました。1921年に『美食倶楽部』、1925年に『星岡茶寮』を発足させ、各界のグルメ自慢たちを相手に、日本料理の世界を革新させました。「すき焼き」「納豆雑炊」「天ぷら茶漬」「赤貝と田芹の煮浸し」など、特別に手のこんだものではなく、素材の持ち味を引き立てる料理が魯山人の真骨頂でした。
参考)北大路魯山人、あるいは美食の理論(2)(1992)|Save…
魯山人は「器は料理の着物」という言葉を遺しており、食材・素材の持ち味がさらに引き立つ器を作るため、さまざまな焼物に挑戦しました。星岡茶寮で用いる膨大な数の食器を常備するために、茶寮開設の翌年、北鎌倉に約7千坪の土地を借用し、住居と窯場を設けました。窯場には優秀な陶工を集め、魯山人の指導のもと制作を開始しました。
参考)https://www.jpf.go.jp/j/project/culture/exhibit/oversea/2019/pdf/catalog_rosanjin_j0701.pdf
魯山人は織部、備前、信楽、志野、瀬戸焼などの多くの作品を研究し、それぞれの良さを取り入れた独自の作風を確立しました。制作した器は20~30万点とも言われ、多作な作家として知られています。代表作には、楓の葉をかたどった5枚セットの「染付楓葉平向五人」や、長さ50cmにも及ぶ大きな板状の「織部釉長板鉢」があります。
参考)陶芸家・北大路魯山人の作品・評価とは?器への強いこだわりと美…
「雲錦鉢」は満開の桜と紅葉が鮮やかに描かれた鉢で、魯山人の初期の代表作と言われています。尾形乾山や仁阿弥道八といった京焼の名品を参考にした描き方には迷いがなく、豪快さとスピード感あふれる華やかさを感じることができます。また、志野焼の「草平向」は、ピカソが気に入り、譲ってほしいと願い出たという逸話が残るほど注目された作品です。魯山人の備前茶碗は光悦の雰囲気を持たせた独自の形が好く出ており、彼の陶芸技術の高さを示しています。
参考)北大路魯山人の作品価値と買取相場2025|作品の特徴から市場…
魯山人は美を厳しく追求する姿勢から、遠慮なく自分の信ずるところを口にし、ときに人を人として扱わない一面もあったと言われます。周囲から煙たがられたのは、ずばりと痛いところを突く眼識と、大きな風貌からにじみ出た威圧感によるところが少なくありませんでした。私生活では過酷な幼児体験から他者を信頼することができず、誰に対しても率直な発言をおこなったために、周囲と多くの摩擦を引き起こして孤独な晩年を送りました。
魯山人は生涯で6度の結婚をし、すべて破綻しています。自身の子供達とも絶縁状態であり、晩年、魯山人の病床に呼ぶことすら許さなかったそうです。1936年(昭和11年)には、放漫経営を理由に中村竹四郎より星岡茶寮の解雇通知を受け、看板を「魯山人雅陶藝術研究所」に掛け替え、作陶一本で進む決意を固めました。
参考)晩年の 『巨人・北大路魯山人』|小代焼中平窯 西川智成
昭和34(1959)年、魯山人は横浜の病院で76年の生涯を閉じますが、この数年前、文部省から二度にわたって重要無形文化財(人間国宝)認定の要請がありました。しかし、魯山人は頑として首を縦に振りませんでした。「芸術家は位階勲等とは無縁であるべきだ」という自分の信念を最期まで貫いたのです。しかし、魯山人の芸術は、その人間性さえも凌駕するような高みを見せ、没後から現在に至るまで、その絶対的な評価はまったく揺るぎません。墓所は京都府北区にある西方寺に設けられています。
参考)https://showa-g.org/events/view/224