瀬戸で磁器を焼くより、陶器から"染付"を始めた方が先だったと知ると収集眼が変わります。
瀬戸という土地は、日本六古窯のひとつとして平安時代末期から陶器の産地として栄えていました。1,000万年以上前に堆積した「瀬戸層群」と呼ばれる地層には、木節(きぶし)・蛙目(がえろめ)という良質な粘土が豊富に含まれており、鉄分をほとんど含まない白い粘土が多様な器をつくり出す土台となっていました。
ところが、磁器という分野では瀬戸は長らく後発でした。つまり瀬戸が磁器の生産に本格参入したのは、日本で最初に磁器を焼いた有田(佐賀県)から約200年も遅れた享和元年(1801年)のことです。
それまでの瀬戸では九州産の薄く硬質な磁器に市場を奪われ、陶器産業は不況にあえいでいました。そこに登場したのが「磁祖」と呼ばれる加藤民吉(1771〜1824)です。民吉は次男であったため家業の窯を継ぐことができず、名古屋・熱田での新田開発に従事していましたが、尾張藩の磁器試作プロジェクトにその技量を買われて参加することになります。
試作は最後の一歩が届かず、民吉は尾張藩と瀬戸村のバックアップを受けて九州へ修行に出ます。現地では天草・東向寺の住職であった天中和尚を頼り、窯屋の紹介を受けながら3年間の修行を行いました。よく語られる"産業スパイ・悲恋の物語"は、昭和初期に上演された歌舞伎『明暗縁染付』のフィクションであり、実際の民吉は独身のまま九州へ渡り、正々堂々と技術を習得して帰郷したと記録されています。民吉が習得したのは磁器焼成の技術だけではなく、瀬戸の多彩な釉薬技法と九州の磁器技術をクロスライセンスのように交換した可能性も高いと研究者の間では指摘されています。
白い磁器に呉須(ごす)と呼ばれる酸化コバルト顔料で模様を描き、焼成すると藍色に発色するこの技法が「染付(そめつけ)」です。瀬戸ではこの磁器のことをそのまま「染付焼」と呼び、享和2年(1802年)には藩の保護のもとで染付焼の蔵元制度も整備されました。磁器生産は陶器の長男戸主制と違い次男・三男でも開業できたため、転業が相次ぎ、染付焼はあっという間に陶器生産を凌ぐほどに拡大していきます。これが拡大です。
こうして瀬戸染付焼の歴史は、1つの職人の3年間の修行から劇的に幕を開けたのです。
参考:瀬戸の磁祖・加藤民吉の修行を誤解していないか?(note・瀬戸ものや)
https://note.com/setomonoya/n/n2bcf4fe54a6f
瀬戸染付焼の最大の魅力は、白い素地に映える澄んだ藍色の絵付けです。この藍色は「呉須(ごす)」という顔料から生まれます。呉須は主に酸化コバルトをベースに作られており、素地に塗った段階では灰黒色ですが、焼成によって鮮やかな藍色へと変わります。焼く前と焼いた後で色が全く違う。これが染付の驚きです。
描かれるモチーフは鳥・花・昆虫・風景など自然を題材にしたものが多く、日本画的な濃淡表現が特徴です。技法には主に3種類あります。細い線で輪郭を描く「線描き」、輪郭の内側を呉須で塗り重ねて濃淡をつける「ダミ」、輪郭をとらずに自由な筆遣いで描く「つけたて」です。職人はこれらを組み合わせて一枚一枚手描きで仕上げるため、同じ図柄であっても2つとして同じ作品は存在しません。
素地は地元産の「本山木節粘土(ほんやまきぶしねんど)」「本山蛙目粘土(ほんやまがいろめねんど)」「猿投長石(さなげちょうせき)」を調合して作られます。この素地の特徴は透光性と柔らかな白さで、有田磁器の硬質な白とは明らかに異なる独特の風合いを持っています。
焼成の工程でも瀬戸染付焼には独自の工程があります。それが「ねらし」と呼ばれる技法です。本焼成の終盤に窯の温度を1,250度前後という高温で一定時間維持することで、釉薬を充分に熟成させます。これにより表面に潤いとやさしい光沢が生まれ、単なる磁器とは一線を画す深みが出るのです。この温度はご家庭のガスコンロの最高温度約250度の約5倍。その高温をじっくりと維持するところに、瀬戸独特の味わいが宿っています。
「染付」は通常、磁器に施す技法とされていますが、瀬戸染付焼では陶器に染付を施したものも含まれます。これは全国でも珍しいことです。陶器にも磁器にも染付が使えるのは、陶器・磁器の両方に対応できる多様な粘土が採れる瀬戸の地理的特性があってこそ、ということですね。
参考:瀬戸染付焼について|愛知県産業労働部(製造工程と技法の詳細解説)
https://www.pref.aichi.jp/sangyoshinko/jibasangyo/industry/seto-sometsukeyaki.html
享和年間(1801〜04年)に産声を上げた瀬戸の磁器生産は、その後の文化・文政年間(1804〜30年)に絵付技術の面で大きな飛躍を遂げます。横井金谷らの南画系の本画師・文人たちが瀬戸を訪れ、陶画工たちに中国風の柔らかで潤いのある絵画技法を指導したのです。この指導によって確立した、瀬戸の自然や風景を描く独自の画法が、今日まで受け継がれる「瀬戸染付画法」の基礎となっています。
19世紀中期(江戸時代後期)には製造・絵付の技術がほぼ完成し、加藤民吉・吉右衛門兄弟、加藤忠治、川本治兵衛(二・三代)、川本半助(四代)といった名工が次々に傑作を世に送り出しました。これが技術の成熟です。
明治時代に入ると、瀬戸の磁器は国内に留まらず世界を目指します。幕末に日米修好通商条約が締結(安政5年・1858年)されると海外との貿易が本格化し、明治9年(1876年)に創設された森村組が日本陶磁器のアメリカ直接輸出を推進する中心的な役割を果たしました。森村組の販路では「精巧で値段が安く、アメリカ人の関心を引いた」と当時の記録に残っており、瀬戸の染付食器は海外市場での競争力の高さが際立っていたことがわかります。
さらに万国博覧会での活躍も見逃せません。19世紀末から20世紀初頭にかけてパリやウィーンで開催された万博に瀬戸の染付磁器が出品され、その技術力の高さから金賞を受賞するなど高い国際的評価を得ました。ヨーロッパでは日本的な自然描写の美しさが「ジャポニズム」として広く受け入れられ、アール・ヌーヴォーと呼ばれる芸術運動にも影響を及ぼしたとされています。意外ですね。
明治中期以降は動力機械・電気の普及により、手ろくろから機械ろくろ、手描きから転写、薪の窯から石炭・重油の窯へと変化し、大量生産体制が整備されていきました。陶器学校や窯業試験所の開設、鉄道による輸送体制の拡充なども重なり、「陶都瀬戸」としての地位が確立されます。1978年(全盛期)には事業所数1,666・就業人数14,693人という規模にまで膨れ上がりました。
参考:瀬戸焼の概要と歴史|旅する、千年、六古窯(江戸後期〜近代の磁器生産の流れ)
https://sixancientkilns.jp/seto/
瀬戸染付焼を美術品・工芸品として見るとき、多くの人が陥りがちなのが「染付=磁器」という思い込みです。一般的に「染付」とは磁器に施す技法を指すと理解されていますが、瀬戸染付焼に限っては陶器に呉須で絵付けしたものも正式な「染付焼」に含まれます。これを知っておくと、市場での見方が広がります。
陶器の染付と磁器の染付は、手に持ったときの重さと肌触りに明確な差が出ます。陶器の染付は磁器と比べてやや重く、表面に微細な凹凸があります。光を当てると磁器は光を透過する(透光性)のに対し、陶器は透過しません。店頭やギャラリーで作品を手に取る機会があれば、光に透かしてみると陶器と磁器の違いが一目でわかります。これは使えそうです。
また、呉須の発色にも注目したいところです。瀬戸染付焼は「ねらし」という高温での熟成を行うため、同じ染付でも他産地の製品と比べると藍色の深みと潤いが異なります。特に文化・文政期(1804〜30年)の古い染付作品では、横井金谷などの文人画師の影響を受けた南画風の描写が多く見られ、細部の線描きと「ダミ」の塗りの組み合わせに技術の巧拙が如実に現れます。
瀬戸染付焼の鑑賞・収集をより深く楽しむためには、愛知県瀬戸市にある「瀬戸染付工芸館」(営業時間10:00〜17:00、火曜定休)を訪れることをおすすめします。ここでは実際の制作工程を間近で見学でき、江戸期の名品から現代作家の作品まで一堂に展示されています。現代の職人が実際に筆を走らせる姿を見ることで、「ダミ」や「線描き」の微細な違いが体感的に理解できます。1度見学するだけで、コレクションの見立て精度が大きく変わるでしょう。
なお、オンラインで作品を探す際は「瀬戸染付工芸館」公式サイトや伝統的工芸品の販売プラットフォームを確認するのが確実です。「染付焼」というキーワードだけで検索すると有田・九谷など他産地の作品が多数混在するため、「瀬戸染付焼」とフルネームで検索することがポイントです。
参考:瀬戸染付工芸館|瀬戸市文化振興財団(作品展示・見学情報)
https://www.seto-cul.jp/sometsuke/setosome.html
瀬戸染付焼は1997年(平成9年)5月14日、経済産業省(当時・通商産業省)により国の伝統的工芸品に指定されました。第31次指定という節目のタイミングです。しかし指定を受けたことで産業が安泰になったわけではありません。
1978年(全盛期)には事業所数1,666・就業人数14,693人を誇った瀬戸市のやきもの産業全体ですが、2013年のデータでは事業所数189・就業人数2,654人まで落ち込んでいます。これは全盛期の約5分の1以下の水準です。その中で瀬戸染付焼工業協同組合の組合員数は平成29年(2017年)時点でわずか21名とされており、産業としての厳しさが数字にはっきりと表れています。
背景には複合的な要因があります。まず海外から安価な大量生産品が大量に流入したことで、手描きの染付焼が価格競争に晒されました。さらに瀬戸市の産業全体が食器から工業用セラミックス・碍子・ファインセラミックスへとシフトしていったことで、伝統的な手仕事の担い手が育ちにくい環境になりました。加えて、若者が手作業中心で修行期間が長い伝統工芸の職に就きにくい構造的な問題もあります。厳しいところですね。
一方で、近年はこの状況に変化の兆しも見えています。瀬戸染付焼の現代作家たちは、従来の自然画モチーフに留まらず、現代的なデザインや実用食器への応用を試みており、若い世代の陶磁器ファンからも注目を集め始めています。「普段使いの染付食器」として日常のテーブルに取り入れることで、作品と職人の双方を支えることができます。
瀬戸染付焼の組合や産地では後継者育成のための技術講習なども行われています。1つの器を手にとり、その価値を知ることが伝統技術を未来につなぐ第一歩であることは間違いありません。購入を検討する場合は、組合員による手描き作品であることを確認することが、本物の染付焼を選ぶための最低限の基準です。伝統工芸品のシンボルマーク(経済産業省認定)が付いているかどうかの確認も有効な手段のひとつです。
参考:瀬戸染付焼(せとそめつけやき)の特徴や歴史|工芸品Japan(特徴・歴史・制作工程の総合解説)
https://kogeijapan.com/locale/ja_JP/setosometsukeyaki/

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