登り窯と古墳時代の須恵器生産技術

古墳時代中期に朝鮮半島から伝来した登り窯の技術は、日本の焼き物文化を大きく変革させました。窖窯構造による高温焼成で灰色の硬質な須恵器が誕生した当時の製作現場は、どのような環境だったのでしょうか?

登り窯と古墳時代の焼成技術

登り窯の特徴と古墳時代の革新
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高温焼成技術

朝鮮半島から伝来した窖窯による1,100〜1,200℃の還元焼成で硬質な須恵器を実現

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斜面構造の活用

急斜面に築かれた半地下式トンネル状の窯で、自然の対流を利用した効率的燃焼

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青灰色の発色

酸素を制限する還元炎焼成により、粘土中の酸化鉄から独特の青灰色を発色

登り窯と窖窯の構造と古墳時代の伝来

古墳時代中期(5世紀初頭)に朝鮮半島から伝来した登り窯(窖窯)は、日本列島における焼き物生産に革命的な変化をもたらしました。それまでの野焼きや土器焼成坑とは異なり、急斜面を利用して築かれた細長いトンネル状の構造が特徴です。窖窯は地下式と半地下式の2種類があり、古墳時代から古代にかけては主に半地下式が採用されました。
参考)登り窯 - Wikipedia

 

窯の構造は、薪をくべる「焚口」、薪が燃える「燃焼室」、製品を焼く「焼成室」、煙を排出する「煙道」、作業を行う「前庭部」から構成されています。窯の長さは時代や立地によって変化しますが、古墳時代の須恵器窯は3〜9メートル程度でした。この構造により、斜面の傾斜と重力を利用した燃焼ガスの自然対流が生まれ、窯内を均一な高温に保つことが可能になりました。
参考)窖窯 - 広島大学デジタル博物館

 

朝鮮半島との国際交流の中で、百済や伽耶の陶質土器製作技術を持った陶工集団が日本に渡来し、須恵器生産を開始しました。近年の発掘調査では、神戸市の出合窯址が約1,600年前の日本最古級の須恵器窯と推測されており、渡来した陶工たちが最初に活動した拠点の一つとされています。
参考)https://www.pref.aichi.jp/touji/pressrelease/pdf/20250821.pdf

 

古墳時代の須恵器製作とロクロ技術

須恵器製作には、窯の技術と同時に「ロクロ」という革新的な成形技術が朝鮮半島から伝来しました。ロクロは回転する台の上で粘土を成形する道具で、均一な厚みと滑らかな表面を持つ製品を効率的に生産することを可能にしました。
参考)【高校日本史B】「古墳時代の土器」

 

須恵器の製作工程は、まず粘土紐を巻き上げて概形を作る一次成形から始まります。次にロクロを使った二次成形で器形を整え、大型の甕や壺類では叩き締め技法が併用されました。叩き締めは、内側に押圧具を当て、外側から木製の打圧具で叩いて器壁を薄く堅緻に仕上げる須恵器系独自の技法です。
参考)5. 生産技術 - 珠洲市ホームページ

 

器高30センチメートル台の製品は、糸切り底が採用され、初期段階では右回り回転糸切り痕が特徴的でした。ロクロの回転を利用した調整技術により、クシ目文などの装飾文様も施されるようになりました。これらの製作技術は、それまでの弥生土器や土師器とは明確に異なる、高度な工人集団による専業的生産体制を示しています。
参考)須恵器 - Wikipedia

 

登り窯の高温焼成と還元炎焼成の原理

登り窯の最大の特徴は、1,100〜1,200℃という極めて高い焼成温度を実現したことです。これは、それまでの野焼きや土器焼成坑の約800℃と比較して、400℃以上も高い温度です。この高温焼成により、粘土が完全に焼き締まり、硬質で水漏れしない器が誕生しました。
参考)須恵器ってなあに - 島本町ホームページ

 

須恵器の特徴的な青灰色は、「還元炎焼成」と呼ばれる技法によって生まれます。焼成の最終段階で焚口と煙道を塞いで窯内の酸素供給を制限すると、窯内は酸欠状態になります。この状態で燃焼が続くと、粘土中の酸化鉄から酸素が奪われて鉄成分となり、須恵器独特の青灰色が発色するのです。
参考)https://adeac.jp/yukuhashi-city/text-list/d100010/ht1024301150

 

焼成作業は温度帯によって「炙り」「攻め」「煉らし」という段階に分かれます。900℃までの「炙り」で水分を蒸発させ、900℃を超えて還元焼成を行う「攻め」の段階で釉薬が溶けてガラス状になります。最後の「煉らし」では最高温度を維持しながら、窯内の温度を均一に整えて焼き上げを完了させました。
参考)Q:窯の焚き方には「あぶり」とか、いろいろあるそうですが、違…

 

登り窯の立地条件と古墳時代の窯跡群

須恵器窯は人里離れた山間部で発見されることが多く、これには明確な理由があります。窯の立地には、起伏のない長い急斜面、豊富な燃料となる木材、良質な粘土、水利の良い場所、一定の風向き、製品製作のための平坦な場所など、複雑な条件が必要でした。
参考)https://kyureki.jp/wp-content/uploads/2021/03/ondemand_2-2.pdf

 

古墳時代の代表的な窯跡群として、大阪府南部に広がる陶邑窯跡群があります。東西約15キロメートル、南北約9キロメートルの範囲に1,000基以上の窯が構築され、古墳時代中期から平安時代まで約500年間にわたって継続的な生産が行われました。陶邑窯跡群は日本最古・最大規模の須恵器生産地として、「陶邑編年」と呼ばれる須恵器研究の基準資料を提供しています。
参考)大阪府陶邑窯跡群出土品 堺市

 

一回の焼成には、現代の四畳半一部屋分に相当する大量の薪が必要だったため、木材が豊富な場所が選ばれました。同じ場所で何度も窯が作り直されたのは、これらの厳しい立地条件を満たす場所が限られていたためです。各地の須恵器窯跡群は、古墳時代の生産拠点として、当時の地域社会における技術集団の存在を物語っています。
参考)https://www.city.munakata.lg.jp/searoad/kiji0034314/index.html

 

古墳時代のブランド陶器としての須恵器の価値

古墳時代の須恵器は、単なる日用品ではなく、高い技術力の結晶として特別な価値を持っていました。初期の須恵器は主に祭祀用や古墳の副葬品として用いられ、古墳からの出土に限られていました。これは、須恵器が当時の支配者層にとって権威を示す特別な品であったことを示しています。
朝鮮半島の陶質土器の特徴を色濃く残した初期須恵器には、装飾付脚付壺、子持高坏、家形容器など、複雑な造形の製品が多く見られます。これらは高度な技術と長い製作時間を要する、まさにブランド陶器としての性格を持っていました。古墳時代後期になると西日本の集落からも出土するようになり、徐々に実用品としても普及していきましたが、東日本では土師器が優勢という地域差も存在しました。
須恵器生産の技術系譜は、日本列島の陶磁器産業の扉を開いた画期的な出来事でした。古墳時代に確立された登り窯と高温焼成の技術は、その後の日本の焼き物文化の基盤となり、奈良時代以降には国分寺の瓦焼成とともに各地に展開していきました。現代の陶芸家たちが伝統技法として登り窯を守り続けているのは、古墳時代に始まったこの技術革新の遺産を受け継いでいるからに他なりません。
堺市の陶邑窯跡群の詳細情報(国内最古・最大規模の須恵器生産地についての考古学的解説)
須恵器の総合的な解説(製作技術、歴史的変遷、考古学的意義について)
広島大学デジタル博物館による窖窯の構造解説(古墳時代の登り窯の技術的特徴)