古墳時代は、日本列島の歴史において弥生時代に続く時代区分で、前方後円墳に代表される古墳が盛んに造られた時代を指します。現在のところ一般的に、古墳時代は3世紀半ば過ぎから7世紀末頃までの約400年間とされています。
参考)古墳時代 - Wikipedia
具体的には、前方後円墳が出現した3世紀後半から始まり、7世紀に前方後円墳の造営が終わった後も、方墳・円墳、八角墳などが造り続けられました。実際の古墳の築造は、畿内・西日本では7世紀前半頃、関東では8世紀の初め頃、東北地方では8世紀の末頃でほぼ終わっています。
古墳時代の始まりについては、3世紀半ば過ぎに前方後円墳が出現したと考える説が一般的ですが、一部の研究者の中には4世紀初頭から前半に始まるとする見方もあります。この時代は、中国大陸や朝鮮半島から多くの人が渡来し、弥生時代以来の伝統に加え、新しい文物や技術、思想が流入した時代でもありました。
参考)古墳時代の形いろいろ|名古屋市博物館
古墳時代は、古墳の形状や分布、副葬品などから前期・中期・後期の3期に区分されます。前期は3世紀後半から4世紀後半までとされ、この時期の古墳は前方後円墳が基本で、丘陵地に造営されました。副葬品は銅鏡や玉類など呪術的・宗教的色彩が強いものが中心でした。
参考)https://komaki-hs.jp/wp-content/uploads/2020/04/20200423_%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2%E2%91%A4.pdf
中期は4世紀後半から5世紀後半までの時期で、古墳は巨大化し、平地にも造営されるようになりました。大仙古墳(仁徳天皇陵)のような巨大前方後円墳が築造されたのがこの時期です。副葬品も変化し、鉄製武具や馬具など実用的なものが増加しました。
参考)古墳時代①〜前期・中期・後期の古墳の特徴
後期は5世紀後半から7世紀末までとされ、横穴式石室が主流となり、群集墳が各地に築造されました。3世紀半ば過ぎから6世紀末までは、前方後円墳が北は東北地方南部から南は九州地方の南部まで造り続けられた「前方後円墳の時代」と呼ばれることもあります。前方後円墳が造られなくなった7世紀に入っても古墳築造は続き、この時期を「古墳時代終末期」と呼ぶこともあります。
前方後円墳は、円形の主丘に方形の突出部が接続する形式で、双丘の鍵穴形をなす古墳の代表的な形式です。主に日本列島で3世紀後期から7世紀初頭頃(畿内大王墓は6世紀中頃まで)にかけて築造されました。
参考)前方後円墳 - Wikipedia
前方後円墳は、古墳時代の象徴的存在として日本列島全体に広がりました。古墳時代中期から後期にかけて主流となり、具体的には4世紀後半から7世紀にかけての時期に盛んに造られました。前方後円墳の出現は、卑弥呼が没した年代(3世紀の中頃・248年)とも関連づけて議論されることがあります。
参考)前方後円墳について|ChatGPT古代史
前方後円墳の形状自体が、権力の象徴であり、当時の社会構造を反映していました。前期の前方後円墳は主に丘陵地に造営されましたが、中期になると平地にも造営され、規模も巨大化していきました。この変化は、ヤマト政権の発展や支配領域の拡大を示すものと考えられています。
参考)前期・中期の古墳~古墳から読み解く特徴と社会の変遷を解説
埴輪は、古墳の周囲や上に置かれた土製品で、筒形の円筒埴輪のほか、人物や動物、家、大刀など器財を表現した形象埴輪があります。円筒埴輪は、古墳を区画し、荘厳化するために使用され、3世紀から6世紀まで最も普遍的に使用されました。
埴輪の起源は、弥生時代後期の吉備地方にあり、墳丘墓に供えた器台と、飲食物の象徴である壺のセットが、円筒埴輪と朝顔形埴輪の祖型となりました。当初は王が死んだときに生前に仕えていた人や馬を埋めていましたが、その異常性に気付き、埴輪を作り始めたという説もあります。
参考)古墳時代の美術をおしゃべり感覚で解説!日本美術史を流れで学ぶ…
形象埴輪は4世紀ごろから出現し、王のマツリの様子などを表現したもので、当時の風俗や儀式の様子がわかるだけでなく、独特な表現から古墳時代の造形を楽しむことができます。馬形埴輪は馬具なども細部まで再現されており、「見返りの鹿埴輪」のように振り返っている鹿の構図で焼き物が作られるなど、単純な構図ではない作品も出てきており、当時の人の創作技術の進化が見られます。
古墳時代には土師器(はじき)と須恵器(すえき)という二つの土器が作られました。土師器は弥生土器が発展したもので、野焼きで焼かれているため焼成温度も低く(約700~800度)、土の締まり具合も柔らかです。色は赤色や黄褐色から赤褐色で、水などの液体を長期間入れておくことはできませんが、火や熱には強いことから、甕、羽釜など、鍋として煮炊きに使用したり、杯、高杯などお供えの器や食器として利用されました。
参考)【中学歴史】古墳時代の特徴、文化まとめ!服装や土器、暮らしは…
須恵器は古墳時代後期(5世紀初頭)に朝鮮半島から伝わったもので、「ろくろ」と「窯」の技術とともに伝来しました。現在の陶器と同じように、ろくろを使って形が作られ、登り窯で1000度の高熱で焼かれるため色は青灰色で黒色に見え、焼成温度も高く土の締まり具合は土師器と比べ硬いです。そのため水などを貯蔵することができました。
参考)土師器と須恵器 - 国指定史跡「浦間茶臼山古墳保存会」
須恵器は薄くて硬いのですが熱には弱いため、主に食器・貯蔵具などが多く作られました。日常的に食器として使われる杯から、古墳でしかみかけない提瓶など、一口に須恵器といっても用途や形状はさまざまです。朝鮮半島の百済と伽耶、新羅の陶質土器の技術を取り入れた須恵器は、古墳時代には百済や伽耶の陶質土器の器形に倣っていました。
参考)鳩山窯跡群
古墳時代の食器文化は、陶器や焼き物の歴史を理解する上で非常に重要です。日本の陶磁器(焼き物)の歴史は縄文時代までさかのぼりますが、古墳時代には土師器や埴輪が登場し、その後の日本の陶芸の発展の基礎となりました。
参考)陶磁器(焼き物)の歴史
土師器は、古墳時代から飛鳥・奈良時代、平安時代までつづき、いまの「かわらけ」につながるもので、長く日本で使用され続けた焼き物です。土師器の器種には、貯蔵器としての壺、調理器としての甕、供膳器の高杯・鉢などがあり、儀礼の場面で使用される加飾された二重口縁壷、小型精製土器も使用されました。古墳時代前期の代表的な土器である小型精製器種は、古墳の墳丘上や集落内の祭場から多数出土することから、儀礼の際の一回きりの飲食用器であった可能性もあります。
参考)日本古代土器の基礎知識
須恵器の技術は、朝鮮半島の百済や伽耶からもたらされた陶質土器の技術で、古墳時代の4世紀から平安時代の12世紀にかけて、朝廷の注文品と上層階級の貴族や社寺で使う日常生活用の器として焼成されていました。須恵器の製作には窯が使われ、仏教や文字、画、錦、金属加工、馬具類など、新しい技術や知識を持った百済の人々が携わりました。
参考)28 支配層を魅了した須恵器の技術
古墳での供献儀礼では、須恵器と土師器合わせて約100点が出土する例もあり、土器が供献具の基本要素となっていました。土鍋など火にかけられる陶器は土師器・須恵器が原点であり、現代の陶芸につながる技術の断片が点ではなく線で繋がっていることがわかります。陶器制作専門の職人は古墳時代にすでにいたのではないかと考えられ、作品を作り炎を操り、完成に至るまでには熟練の技が必要でした。
参考)https://hattori-iseki.yayoiken.jp/h-kofun2.html
古墳時代の詳細な時代区分と特徴について - Wikipedia
古墳時代の埴輪や土器の形状と技術について - 名古屋市博物館
土師器と須恵器の製作技術と用途の違い - 国指定史跡「浦間茶臼山古墳保存会」