「名古屋土産のういろうが好きで、よく買う」というあなた、実は小田原でしか本家のういろうは売っていません。
「外郎(ういろう)」という言葉の起源は、食べ物でも薬でもなく、中国・元朝時代の役職名にあります。元朝で「礼部員外郎(れいぶいんがいろう)」という職についていた陳延祐(ちんえんゆう)が、1368年(応安元年)に元が明に滅ぼされたのを機に九州の博多へ亡命してきました。この官職名「員外郎(いんがいろう)」の「外郎(がいろう)」を日本に持ち込み、みずからの名乗りとしたことが「ういろう」という名称の始まりです。
「外郎」という漢字は、中国語の官職名を指しており、意味は"定員外の職員"にあたります。ここで重要なのが読み方の変化です。
「外」という漢字には、漢音(かんおん)では「がい」、呉音(ごおん)では「げ」という読みがありますが、元朝で用いられた唐音(とうおん)では「うい」と発音されていました。日本に亡命した陳延祐は、この唐音に則って「外郎」を「ういろう」と読ませ、自身の家名としたのです。この読み方は1408年の文献にも「ウイラウ」とルビが振られており、室町時代初期にはすでに定着していたことが裏付けられています。
つまり「外郎=ういろう」という読みは、菓子や薬が生まれるよりも前に、人の名前(姓)として成立していたということですね。後から薬も菓子もこの家名から名づけられた、というのが正確な順番です。
クリナップ「江戸散策 第83回」:「外」が唐音で「うい」と発音される理由と外郎家の由来を詳しく解説
外郎家が日本に持ち込んだ家伝薬が「透頂香(とうちんこう)」です。もとは「霊宝丹(れっぽうたん)」と呼ばれていましたが、初代が烏帽子の折り目にこの薬を挟んで御所に参内した際、配合した生薬の香りが冠の頂(いただき)から漂ったため、当時の天皇から「透頂香」という名を賜りました。「頂を透く香り」という意味がそのまま名前になった、雅なエピソードです。
透頂香は、腹痛・消化不良・痰咳・頭痛・動悸・息切れなど幅広い症状に対応する丸薬で、携帯性の高さもあって評判を呼びました。読みにくかったこともあり、次第に家名から「薬のういろう」と呼ばれるようになります。これが「ういろう」という言葉が薬の名称として広がった理由です。
お菓子としてのういろうが誕生するのは、二代目の大年宗奇(たいねんそうき、1372〜1426年)の代のことです。大年は室町幕府三代将軍・足利義満の招聘で京都に上がり、朝廷や幕府の外交役を担っていました。外国使節団の接待の際、長旅の疲れを癒し食欲のない賓客にも栄養を摂ってもらおうと、南方から仕入れた高価な黒砂糖を米粉と練って蒸した棹菓子を考案しました。これがお菓子としての「ういろう」の原点です。
黒砂糖は当時、貴族の栄養薬として流通するほど希少な高級品でした。薬種業を営む家だからこそ入手できた素材で作られた菓子、ということですね。この菓子も自然と家名から「お菓子のういろう」と呼ばれるようになりました。創業1368年から数えると、現在の株式会社ういろうは650年以上の歴史を持つ、日本最古クラスの企業のひとつです。
株式会社ういろう「外郎家の歴史」:創業1368年から現在に至る外郎家の足跡を一次資料として確認できる公式ページ
「ういろうといえば名古屋」というイメージが全国的に定着していますが、その歴史的な経緯は少し複雑です。名古屋にういろうが伝わったのは1650年頃(万治2年を創業とする餅文総本店が元祖)のことで、明出身の陳元贇(ちんげんぴん)から製法を伝えられたとされています。これは外郎家から直接伝わったのではなく、製法が広まったという別ルートです。名古屋ういろうが全国区になったきっかけは1964年(昭和39年)の東海道新幹線開通で、名古屋の和菓子店が車内販売を行ったことが大きいとされています。
小田原外郎家(株式会社ういろう)は創業の系譜こそ最も古いものの、一般向けに菓子の販売を始めたのは明治時代に入ってからです。そのため菓子販売の老舗としては名古屋の餅文総本店が全国最古とされています。小田原ではいまも小田原外郎家の直営店のみで販売されており、通信販売は行っていません。
山口のういろうには、わらび粉を使うという大きな特徴があります。他の地域のものが主に米粉ベースであるのに対し、山口ではわらび粉と小麦粉を組み合わせ、小豆などの餡を入れるスタイルです。永正年間(1504〜1521年頃)から続くとされ、元祖とされる福田屋の味は現在の御堀堂(おほりどう)が受け継いでいます。
日本三大ういろうは、「名古屋ういろう」「山口ういろう」「阿波ういろ(徳島)」とされています。意外ですね。三重(伊勢の虎屋)や富山など、ういろうを名乗る菓子は全国に点在しており、原材料も製法も地域によってかなり異なります。
| 地域 | 主な原材料 | 特徴 |
|---|---|---|
| 小田原 | 米粉・黒砂糖 | 1368年創業の外郎家直営のみで販売 |
| 名古屋 | 米粉・砂糖 | 新幹線開通で全国区に。多彩な味 |
| 山口 | わらび粉・餡 | 他地域と異なる食感。生ういろうが名物 |
| 阿波(徳島) | 米粉・餡・和三盆 | 桃の節句に食べる風習。抹茶との相性◎ |
| 三重(伊勢) | 小麦粉のみ | 米粉・わらび粉不使用の独自スタイル |
東京都公立大学法人「ういろうの起源をめぐる謎」:各地のういろうの原材料・起源の違いを学術的に検証した論文(PDF)
「ういろう」が陶器ファンや歴史好きにとって興味深いのは、単なる食べ物の話にとどまらないためです。外郎家とゆかりのある文化的遺産として、歌舞伎の演目「外郎売(ういろううり)」があります。
これは今から約300年前(江戸時代)、二代目市川團十郎が薬の「透頂香」でのどの持病を治してもらったことへの感謝として創作したものです。初演は江戸の森田座で「若緑勢曾我(わかみどりいきおいそが)」の外題のもと上演されました。この演目の中で、あでやかな外郎売に扮した團十郎が述べる「早口言葉(ちょっと聞こえにいかがでしょう〜……)」は、現在もアナウンサーや俳優、声優などが滑舌練習に用いる定番のテキストとして広く活用されています。
さらに外郎家は祇園祭とも深い縁があります。二代目大年が京都在住時代に、同じ町内に屋敷を構えていた四条隆資(たかすけ)卿の25回忌に際して、中国の故事で勇者を表す「蟷螂(とうろう=かまきり)」を御所車の上に載せた山を考案したのが「蟷螂山(とうろうやま)」の始まりとされています。祇園祭の山鉾巡行はユネスコ無形文化遺産にも登録されており、その一角に外郎家が約600年前に創案した山が現在も加わっています。
これは実に驚くべきことです。「お菓子のういろう」の名家が、世界遺産レベルの祭りの演目を600年前に生み出していたのです。
静岡県森町には、五代目定治が小田原移住の途中に伝承したとされる「蟷螂の舞」が今も受け継がれています。山名神社天王祭舞楽(国指定重要無形民俗文化財)の一演目として毎年7月に上演されており、500年以上の時を経て生きた文化として継承されています。
中央区観光協会特派員ブログ「市川團十郎の外郎売」:歌舞伎十八番「外郎売」と外郎家・透頂香との関係を詳述
陶器に興味のある方に特にお伝えしたいのが、外郎家の屋敷跡から発掘された陶磁器の話です。これはあまり知られていない事実ですが、陶磁器の歴史と外郎家の歴史は遺跡という形で直接交わっています。
1987年に行われた小田原城下・欄干橋町遺跡(外郎家屋敷跡)の発掘調査では、江戸初期の地層から非常に豪勢な遺物が一括出土しました。その内訳は、国産では「織部焼」「志野焼」という桃山〜江戸初期を代表する高級陶器、海外からは中国・明時代の「青花(せいか)」「白磁」「青磁」など、当時の最高級品が一緒に廃棄されていたのです。
さらに17世紀中期(1600年代半ば)の地層からは、「伊万里焼の染付」と「波佐見青磁」も一括出土しています。波佐見青磁は17世紀前半に日本で生産が始まったばかりの最新の国産磁器で、当時の上流階級のみが入手できた高級品でした。同時期の遺跡調査では、仙台城本丸跡や城主・大名の屋敷跡など、権力者の居場所でしか波佐見青磁は出土していません。織部・志野・中国磁器・波佐見青磁がすべて揃う家は、それほど限られていたということです。
これを言い換えると、外郎家は薬と菓子の販売で得た財力をもって、当時入手困難な陶磁器を複数揃えて使うほどの富裕な家柄だったということですね。650年の歴史を持つ家の生活を、出土した器が雄弁に語ってくれます。
陶磁器を通じて外郎家の歴史を探求したい方は、現在も小田原市内に残る「外郎博物館」を訪ねる価値があります。明治18年築の家蔵を活用した博物館で、外郎家の歴史資料のほか、代々使われてきた道具類なども展示されています。関東大震災にも耐えた建物の中で、650年以上続く家の息吹を感じることができます。
戸栗美術館「消費地出土品からみる17世紀前半の波佐見青磁」:外郎家屋敷跡の発掘調査と波佐見青磁の関係を学術的に詳述した専門資料
小田原市観光協会「外郎博物館」:明治18年築の家蔵を活用した外郎博物館の案内ページ