ハプスブルク帝国とオーストリアの違いは、前者が広大な領土全体を指し、後者はその中核となる地域を指す点にあります。ハプスブルク帝国は、スイスの小領主から始まったハプスブルク家が、婚姻政策と戦争により獲得した広大な領土全体の総称です。一方、オーストリアはハプスブルク家の本拠地として、13世紀に獲得された地域を指します。
参考)ハプスブルク帝国
神聖ローマ帝国との関係も重要な違いです。神聖ローマ帝国は多くの領邦で構成された帝国全体の枠組みであり、オーストリアはその中の一領邦(ハプスブルク家の支配地)にすぎませんでした。しかし、ハプスブルク家は15世紀以降、神聖ローマ皇帝位を実質的に世襲し続けたため、両者が同一視されやすくなったのです。
参考)神聖ローマ帝国とオーストリアは別物?その違いを解説
1806年に神聖ローマ帝国がナポレオンによって解体されると、ハプスブルク家はオーストリア帝国を設立し、完全に独立した主権国家として歩み始めました。これにより、皇帝はオーストリアの政治に専念できるようになり、むしろ有利に働いたという歴史的な皮肉があります。
参考)【高校世界史B】「三十年戦争でオーストリアは得をした!?」
ハプスブルク帝国を築いた最大の秘密は、「戦争は他家に任せておけ。幸いなオーストリアよ、汝は結婚せよ」という言葉に象徴される婚姻政策にあります。特に、マクシミリアン1世が企図した4回の結婚政策が、帝国の基礎を形作りました。
参考)Zorac歴史サイト - ハプスブルクの結婚戦略(1) - …
まず、マクシミリアン1世自身がブルゴーニュ公国のマリー公女と結婚し、ネーデルラント(現在のオランダ、ベルギー、ルクセンブルク)を獲得しました。さらに、息子フィリップと娘マルガレーテをスペイン王室と縁組させることで、孫のカール5世の時代にハプスブルク家の領土はヨーロッパの大部分、南米大陸や東南アジアまで拡大したのです。
参考)http://tabisuru-c.com/travel/mitteleuropa_2015/austria_history/austria2r.htm
この婚姻政策の効果が顕著で、欧州の最大勢力に駆け上がったため目立っただけで、実は中世の王侯家が政略結婚により領土獲得を目指すのはごく当たり前の話でした。ハンガリー王マチアス・コルウスが戦争に勝ち続けて領土を拡大したにも関わらず、嫡子が無いために死後に全てが無に帰したのに対し、負け続けたハプスブルク家が婚姻により大帝国を築いた皮肉を表現した言葉だという説もあります。
1804年、ハプスブルク家のフランツ1世がオーストリア皇帝を宣言し、オーストリア帝国が正式に成立しました。これは、ナポレオンがフランス皇帝を名乗ったことへの対抗措置でした。1806年に神聖ローマ帝国が解体された後も、オーストリア帝国は存続し続けます。
参考)オーストリア帝国 - Wikipedia
オーストリア帝国の時代前半はナポレオン戦争とメッテルニヒ時代であり、後半は1848年「諸国民の春」によるウィーン体制崩壊後のフランツ・ヨーゼフ1世時代前半です。この時代は、「オーストリア皇帝を戴く大ドイツ主義」か「プロイセン王を戴く小ドイツ主義」かで揺れ動いていました。
1866年の普墺戦争にオーストリアが完敗すると、統一ドイツから除外される事態に陥ります。また1848年革命に代表される非ドイツ民族の不満を収拾するため、ドイツ人に次ぐ大勢力であったハンガリー系(マジャル人)との妥協(アウスグライヒ)を選択しました。1867年にオーストリア=ハンガリー帝国(二重帝国)が発足し、ハプスブルク家当主が皇帝と国王を兼ね、両国が政府と議会を持ち、外交・軍事・財政では共通政策を採るという国家体制が誕生したのです。
参考)アウスグライヒ
ハプスブルク帝国の最大の特徴は、多民族・多言語国家であった点です。1910年国勢調査によるオーストリア帝国内の民族人口統計では、帝国の総人口2,796万人のうちドイツ人は35.58%であるのに対して、チェコ人は23.02%を占めました。スラブ語派のポーランド人、ウクライナ人、スロベニア人、セルビア・クロアチア人を含めるとスラブ語使用民族は60.65%に達し、数の上でドイツ人をはるかに超えていたのです。
参考)WebOPAC システム・メッセージ
自国が多種多様な地域・民族からなる複合君主政国家であることを理解していたハプスブルク家の人々は、支配下にある諸地域の言語を学ぶことに力を入れ、ほとんどがマルチリンガルとなりました。フランスのルイ16世に嫁いだマリー・アントワネットは、5つの言語を操ったと言われています。
参考)ハプスブルク帝国とヨーロッパ
オーストリア=ハンガリー帝国の軍隊も、二重帝国の政治的状況を反映して非常に複雑でした。オーストリアとハンガリーの合同陸軍を中心に、オーストリアおよびハンガリーそれぞれの防衛軍を含む陸軍3つと海軍で構成されていました。海軍は二重帝国の共通軍隊として位置付けられ、K.u.K(kaiserlich und königlich:帝国と王国)という呼称が使われました。
参考)オーストリア=ハンガリー帝国海軍 - Wikipedia
ハプスブルク帝国の華やかな宮廷文化は、現代まで続く名窯ブランドを生み出しました。1718年創業のウィーン・アウガルテン磁器工房は、ヨーロッパで2番目に古い窯元です。1744年、女帝マリアテレジアによって皇室直属の磁器窯に命じられ、その証としてハプスブルク皇室の楯型紋章を授かるという栄光を手にしました。
参考)https://www.le-noble.com/d/s/sm.php?mk=022
アウガルテンの白磁は、繊細かつ優雅なフォルム、しっとりと手に馴染む艶やかな生地、細部まで精巧を極めた細工などにより世界中で高い評価を得ています。現在でも全ての製品が熟練の職人によって手作りされており、3度の窯焼き、金彩はさらに1工程追加され、金の定着がよくなるように油に溶かした金が使われています。
参考)ユーロクラシクス|アウガルテン マリアテレジアの陶磁器 トッ…
ハンガリーのヘレンドも、ハプスブルク帝国と深い関わりを持つ名窯です。1851年のロンドン万国博覧会でヴィクトリア女王が注文したことで有名になり、ハンガリーを統治していたハプスブルク家のフランツ・ヨーゼフ皇帝もヘレンドを愛し、モーリッツ・フィッシャーに貴族の称号を与えたほどでした。
参考)ヘレンド
窯元 | 創業年 | 特徴 | ハプスブルク帝国との関係 |
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アウガルテン | 1718年 | ヨーロッパで2番目に古い窯、皇室の楯型紋章 | マリアテレジアが皇室直属の窯に指定 |
ヘレンド | 1826年 | 王宮用に3組の食器セット製作 | フランツ・ヨーゼフ1世のモノグラムとハンガリー王冠の絵付け |
ヘレンドは王宮用に食器セットを全部で3組製作しました。国王一家の賓客専用のセットは、金彩で装飾され、フランツ・ヨーゼフ1世のモノグラムとハンガリーの王冠が絵付けされています。1864年に由緒ある旧ウィーン窯が一時閉窯すると、皇帝フランツ・ヨーゼフの命により、宮廷の自家使いでハプスブルク家が倒れるまで門外不出だった「ウィーンのバラ」などの名品がヘレンドに引き継がれました。
参考)ヘレンドの歴史 ヘレンド ジャパン
ハプスブルク帝国は第一次世界大戦で敗北し、1918年に解体されました。領土には、オーストリア・ハンガリー・ボヘミア・モラヴィア・シュレージエン・ガリツィア・スロバキア・トランシルバニア・バナト・クロアチア・カルニオラ・キュステンラント・スラヴォニア・ブコヴィナ・ボスニア・ヘルツェゴビナ・イストリア・ダルマチアなど、多くの地域を抱える大国でした。
参考)オーストリア=ハンガリー帝国 - Wikipedia
画一化を控え、地域や民族の壁を越えようとしたハプスブルク家の試みには、今日でも参考になることがあります。現実に存在する多様性に向き合い、異なる言語や文化を積極的に学ぶことで理解を深め、多文化共生への道を模索する姿勢は、現代社会にも通じる重要な教訓です。
ウィーンには今でも、かつての帝国の栄華を偲ばせる宮殿や美術館、そして王室御用達だった陶磁器工房が残されています。アウガルテン宮殿では、熟練した職人達によって厳しいクラフトマンシップに裏打ちされた繊細な技が受け継がれている様子を見学できます。「白い黄金」と称される磁器製品が生まれる過程をじっくり見学できる工房と博物館は、ハプスブルク帝国の豊かな文化遺産を今に伝えています。
参考)ウィーン・アウガルテン磁器工房 - wien.info
ブランド陶器に興味がある方にとって、ハプスブルク帝国とオーストリアの違いを理解することは、名窯が生まれた歴史的背景を知る上で欠かせません。婚姻政策により築かれた広大な多民族帝国、その宮廷文化が育んだ芸術と工芸、そして現代まで続く伝統──これらすべてが、一つの食器に込められた物語なのです。
神聖ローマ帝国とオーストリアの違いについて、領邦国家としての構造を詳しく解説
ハプスブルク帝国の領土変遷を時代ごとの地図で視覚的に確認できる資料
ヘレンドの歴史と王宮用食器セットについての詳細情報
ウィーン・アウガルテン磁器工房の見学ツアー情報と博物館ガイド