馬上杯は、酒器としてだけでなく茶碗や小鉢にも使えて、食卓が一気に豊かになる器です。
馬上杯(ばじょうはい)は、器の底にあたる高台(こうだい)が細く長く伸びた、ワイングラスに似たシルエットの杯です。一般的な陶器の茶碗と比べると、高台の長さが全体の高さの半分以上を占めることもあり、器を手にしたときに「これ、どうやって持つの?」と感じるほど独特の存在感があります。
口径は直径8〜10cm程度のものが多く、ちょうどてのひらに収まるコンパクトなサイズ感です。器の容量は個体によって異なりますが、一般的な茶碗より小ぶりで、抹茶1服をすっきりと飲み干せる量が入る設計になっています。
高台の部分には、1か所だけ小さな穴が開けられているものが多くあります。これは装飾ではなく、ここに紐を通して腰や首から下げられるようにするためのものです。つまり馬上杯とは最初から「体に携帯して使う」前提で設計された器だということですね。
陶器の素材としては、赤楽・黒楽・粉引・備前・萩焼・有田焼など多彩な産地・焼き方のものが作られています。それぞれの産地の土の表情や釉薬が個性として現れ、陶器好きにとってコレクションのしがいがある器でもあります。
文化遺産オンライン「青磁唐草文馬上杯」——馬上杯の歴史的遺品について確認できます。
馬上杯の起源は、古代中国・モンゴルの騎馬民族にさかのぼります。馬に乗ったまま片手で手綱を持ちつつ、もう一方の手で高台を握り、豪快に酒を飲んでいたことがその始まりとされています。意外かもしれませんが、これは武張った見せ場ではなく、戦場や遠征において「出陣前に武運を祈って杯を酌み交わす」という実用的な儀礼として生まれたものでした。
その後、馬上杯は日本にも伝わり、戦国武将たちの間で愛用されました。なかでも有名なのが上杉謙信の逸話です。謙信は大変な酒豪として知られており、山形県米沢市の上杉神社稽照殿(けいしょうでん)には、謙信が実際に戦場に持参したとされる馬上杯が現在も保存されています。
その馬上杯は直径約12cm(はがきの短辺とほぼ同じ大きさ)で、なんと3合もの酒が入る規格外の大杯でした。現代の一般的な馬上杯の2〜3倍はあろうかという大きさです。謙信は肴も食べず、ただひたすらに酒をあおっていたと伝えられ、49歳という若さで再発性高血圧性脳出血で亡くなったことは、この飲み方と無関係ではないと言われています。
馬上杯が日本の茶道の世界に入り込んだのも自然な流れで、珍しい形状と歴史的な来歴が茶人の心をとらえました。「馬にまつわる器」として初午(2月最初の午の日)の時季に取り合わせることで、茶席に季節感と物語性を添える道具として定着していったのです。
NEWS ポストセブン「上杉謙信 戦場に特大『馬上杯』を持ち込み酒を飲み続けた」——謙信の馬上杯にまつわる詳細な記録があります。
馬上杯を初めて手にした人が最初に戸惑うのが「どうやって持つのか」という点です。これが基本です。普通の茶碗のように底面を手のひらで支えようとすると、細い高台がすり抜けてしまいます。正しくは、伸びた高台(足の部分)を左手でしっかり握り込むように持ちます。ちょうどワイングラスのステムを包む持ち方をイメージすると分かりやすいでしょう。
茶道でのお点前における扱い方にもポイントがあります。茶碗を畳の上に置いて清める際や運ぶ際は、通常の茶碗と同様に扱いますが、受け取るときと飲むときには、必ず高台の足の部分を左手で扱うことがルールです。「馬上杯の足は左手で扱う」と覚えておけば問題ありません。
飲み干す際の所作は、基本的に通常の茶碗と同じです。茶碗を時計回りに2回ほど回してから口をつけ、3〜4口で飲み切ります。ただし形が独特のため、亭主側がお客に一言「高台をお持ちください」と添えることも多く、茶席での小さなコミュニケーションが生まれる器でもあります。これは使えそうですね。
なお、高台に開いた穴は紐を通して携帯するためのものですが、茶道の点前においては特別な意味を持つというより、器の来歴を示す「形の記憶」として存在しています。穴の形が宝珠(ほうじゅ)型になっているものや瓢箪(ひょうたん)型のものもあり、作者の遊び心が凝縮されたポイントでもあります。
香和会茶道教室ブログ「馬上杯」——お点前での具体的な扱い方について記されています。
「馬上杯は2月しか使えない」と思っている方も多いかもしれません。しかし実際には2月限定の縛りがあるわけではありません。茶道において、器を使う時季は「なぜその器をここで使うのか」という趣向の文脈で決まります。
2月が特に多い理由は、「初午(はつうま)」との結びつきです。初午とは毎年2月の最初の午の日のことで、全国各地の稲荷神社の祭礼が行われる日とされています。茶道の世界では千宗旦(せんのそうたん)が稲荷を深く信仰したことから、初午の季節は「馬にちなんだ取り合わせ」を楽しむ趣向が定着しました。馬上杯はまさにその代表的な器です。
一方で、2月以外でも馬上杯が登場する茶会は珍しくありません。5月5日の端午の節句(こどもの日)に合わせた「馬尽くし」の席や、馬主・牧場関係者を招いた特別な茶会など、「馬」という言葉や概念がテーマになる場であれば十分な理由になります。裏千家ではお家元の献茶式における呈茶席で、2月以外に馬上杯を使用した例も記録されています。
さらに干支が「午(うま)」の年、つまり十二支が一巡するごとに回ってくる午年(次は2026年)は、年間を通じて馬上杯が使われる機会が増える特別な年でもあります。今年のような午年には、馬上杯をひとつ揃えておくと、初釜から初午まで複数の茶席で活躍させることができますね。
Yahoo!知恵袋「馬上杯について」——茶道での季節的な使用制限についてのQ&Aが参考になります。
馬上杯の魅力は茶道の世界だけに留まりません。陶器好きにとって嬉しいのは、日常の食卓でも様々なシーンで活躍できるという点です。つまり「茶道をやっていなくても楽しめる器」だということですね。
まず最も自然な使い方が酒器としての活用です。日本酒の冷酒や食前酒を注ぐのに最適で、口が上に向かってすぼまっている形状が酒の香りを引き立てるため、ワイングラスに近い飲み心地が楽しめます。備前焼の馬上杯に冷えた純米吟醸を注ぐと、備前の土が持つ遠赤外線効果でまろやかさが増すとも言われています。
食卓の小鉢・薬味入れとしての使い方も人気です。高さがあるため、わさびや生姜などの薬味を少量入れるのにちょうどいい大きさです。ジャムをのせてパンの横に添えたり、バターや塩を入れておく器としても使えます。「ちょっと高さがある器が1つ加わるだけで食卓にアクセントが生まれる」という器好きならではの楽しみ方です。
また、ヨーグルトや小さなデザートカップとして使う方もいます。丸みを帯びた碗部分がスプーンですくいやすく、見た目の品格も出ます。和洋どちらの食卓にも合わせやすいシルエットは、馬上杯の意外な汎用性と言えるでしょう。
馬上杯を初めて購入するなら、まずは予算5,000円〜15,000円程度の備前焼や萩焼の作家物を一客から試してみるのがおすすめです。メルカリやヤフオクなどでは1,000〜5,000円台で状態の良い中古品が出品されており、気軽に試せる入口として活用してみてください。価格帯を確認する目的でチェックするだけでも、さまざまな産地・作家の馬上杯を比較できます。