ジョン・ドルトン発見した法則と原子説の影響

ジョン・ドルトンが発見した分圧の法則と倍数比例の法則は、現代化学の基礎を築きました。気象学から始まった研究が原子説へ至る過程と、色覚異常の発見など、彼の業績は意外な広がりを見せます。科学史に名を刻んだドルトンの功績を、あなたはどこまでご存じですか?

ジョン・ドルトン発見した法則

この記事でわかること
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分圧の法則

混合気体の全圧が各成分の分圧の和に等しいという、気体化学の基本法則です

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倍数比例の法則

2種類の元素から複数の化合物ができるとき、一方の元素の質量が簡単な整数比になる法則です

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原子説の提唱

物質が分割できない粒子である原子から構成されるという、化学史上最も重要な理論の確立です

ジョン・ドルトンの分圧の法則とは

ジョン・ドルトンが1803年に発表した分圧の法則は、混合気体の圧力(全圧)が各成分気体の分圧の和に等しいことを示す重要な法則です。この法則は「ドルトンの法則」とも呼ばれ、理想気体の混合物における基本原理として現代化学でも広く使われています。
参考)https://www.cradle.co.jp/glossary/ja_T/detail0307.html

 

この法則の発見は、ドルトンが気象学の研究を進める中で、大気を構成する気体の性質や水蒸気の挙動に関心を持ったことに端を発します。当時、水蒸気が空気中にどのように存在するのかについては、水蒸気が空気と化学的に結合しているという説が主流でしたが、ドルトンは独自の観察から、水蒸気は空気の粒子とは独立に存在すると考えました。
参考)気象学のジョン・ドルトン - read the atmosp…

 

分圧の法則を数式で表すと、成分iの分圧をpiとすると、全圧pは「p = p₁ + p₂ + ... = Σpi」となります。具体的には、定温定圧の条件で複数種類の理想気体を混合して混合気体を作るとき、混合気体の圧力は各気体の分圧の和に等しくなります。この法則により、気体の混合状態を定量的に理解することが可能になりました。
参考)ドルトンの法則 - Wikipedia

 

ジョン・ドルトンの倍数比例の法則の発見

倍数比例の法則は、1802年にジョン・ドルトンによって発見され、彼の原子説を裏付ける有力な証拠として1803年に発表されました。この法則は、2種類の元素AとBから複数の化合物ができる場合、一定量のAと化合するBの質量がこれらの化合物の間で簡単な整数比になることを示しています。
参考)倍数比例の法則 - Wikipedia

 

例えば、炭素と酸素からなる一酸化炭素と二酸化炭素では、炭素12gに対して化合する酸素の質量はそれぞれ16gと32gとなり、その比は1:2という簡単な整数比になります。また、窒素酸化物の例では、窒素14gと化合する酸素の量が酸化二窒素、一酸化窒素、三酸化二窒素、二酸化窒素、五酸化二窒素でそれぞれ8g、16g、24g、32g、40gとなり、1:2:3:4:5の整数比を示します。
参考)原子論を提唱したジョン・ドルトン|知っておきたい 世界の科学…

 

この法則が成立する理由は、原子がそれ以上分割できない粒子であり、炭素原子1個に対して酸素原子が非整数個結合したような化合物が存在しないためです。ドルトンは原子説の考え方に基づいて倍数比例の法則を予想し、実験でこれを確認することで、物質が原子から構成されているという理論の正しさを証明しました。
参考)化学の基本相法則まとめ(質量保存・定比例・原子説・倍数比例・…

 

ジョン・ドルトンの原子説と化学への貢献

ジョン・ドルトンの原子説は1808年に発表され、化学史上最も重要な理論の一つとして認識されています。ドルトンは質量保存の法則や定比例の法則を説明するため、物質は最終的にこれ以上分割できない粒子である「原子」からできているという考えを提唱しました。
参考)ジョン・ドルトン - Wikipedia

 

ドルトンの原子説には5つの基本原則があります。第一に、物質は原子という粒子から構成され、それ以上分割することができません。第二に、同じ元素の原子は、大きさ、質量、性質が一致します。第三に、化合物は2種類以上の原子が一定の割合で結合してできています。第四に、化学反応では、原子の結合が変化するだけであり、原子が消滅したり新たに発生したりすることはありません。第五に、ある特定の元素の原子は、他の元素の原子と異なり、その違いは質量によって判断できます。
参考)3分で簡単ドルトンの原子説!理論の考え方を理系学生ライターが…

 

ドルトンは相対原子質量(原子量)の表を史上初めて作成し、1805年に発表しました。最初の表には水素、酸素、窒素、炭素、硫黄、リンの6種類の元素が掲載され、水素原子の質量を1としていました。この原子説により、質量保存の法則も定比例の法則も論理的に説明できるようになり、化学は近代科学として飛躍的に発展しました。
参考)ドルトンの原子説とは?矛盾が生じた理由を歴史から解説

 

ジョン・ドルトンの色覚異常研究と意外な発見

ジョン・ドルトンは自身が色覚異常であることを発見し、1794年にマンチェスター文学哲学協会で論文を発表した最初の科学者です。26歳のドルトンは、ピンクのゼラニウムの花が太陽光の下では明るい黄色に見え、ロウソクの光では青みが消えて赤く見えることに気付き、これが一般の人々の見え方と異なることを認識しました。
参考)色盲 — 不思議な障害 href="https://wol.jw.org/ja/wol/d/r7/lp-j/101991129" target="_blank">https://wol.jw.org/ja/wol/d/r7/lp-j/101991129amp;mdash; ものみの塔 オンライ…

 

ドルトンにとって赤は灰色に見え、緑とほとんど区別がつきませんでした。有名なエピソードとして、クエーカー教徒であるドルトンが真っ赤な長靴下を履いていたことがあります。クエーカー教徒は通常グレー系、茶系、黒などの地味な色で装うため、周囲は大変驚きましたが、ドルトン本人は友人が悪ふざけで長靴下をすり替えたことに気づかなかったのです。
ドルトンは色覚異常が眼球の液体培地の変色によって起きるという仮説を提唱しましたが、この仮説は誤りでした。しかし、彼が先天色覚異常について科学的に研究した最初の人として、ヨーロッパやラテンアメリカでは色覚異常のことを「ドルトニズム」と呼んでいます。1995年にドルトンの死後保存された眼球の組織を調査した結果、彼の色覚異常は中波長の錐体細胞が働かない2型2色覚であることが判明しました。
参考)https://www.nig.ac.jp/color/barrierfree/barrierfree1-5.html

 

ジョン・ドルトンの気象学研究から原子説への道のり

ジョン・ドルトンの科学者としてのキャリアは、気象学から始まりました。1787年、わずか21歳の時から気象学に関する日記をつけ始め、その後57年間で20万以上の気象観測記録を残しました。若いころドルトンは有能な気象学者エリヒュー・ロビンソンに強く影響を受け、数学と気象学への興味を植えつけられました。
参考)https://core.ac.uk/download/pdf/267844284.pdf

 

気象観測を続けるうちに、ドルトンは大気の性質や気体の振る舞いに深い関心を持つようになりました。特に大気の均質性や気体の溶解現象について研究を進める中で、「単体は粒子からできていて、この粒子が原子である」という考えで説明しようと試みました。気象研究は必然的に大気や水蒸気への関心を呼び、ドルトンはこれら大気を構成する気体の物理学的研究を始めたのです。
参考)https://www.shinko-keirin.co.jp/keirinkan/kori/science/ayumi/ayumi15.html

 

1800年から1802年にかけて、ドルトンは気体の混合物、水蒸気の圧力、蒸発、気体の熱膨張率などについて重要な論文を発表しました。これらの研究過程で、倍数比例の法則が何故成り立つのかを考える中で、一定の質量比率の原子の相互作用によって化学反応が起きているという考え方に到達しました。つまり、大気や他の気体の物理特性を研究する過程で、純粋に物理的概念として原子説の考え方に至ったのです。

ジョン・ドルトンとロイヤルドルトンの陶磁器ブランドの関係

ジョン・ドルトンの名前は科学の分野だけでなく、陶磁器の世界にも残されています。1815年、同姓同名のジョン・ドルトンがロンドンのランベスに磁器工場を創業し、これがイギリスを代表する陶磁器ブランド「ロイヤルドルトン」の始まりとなりました。
参考)フリーダイヤル

 

この陶磁器会社の創業者ジョン・ドルトンは、最初は炻器(せっき:ストーンウエア)のビールピッチャーや水差しを製作していました。1835年には息子のヘンリードルトンが事業に参加し、バスタブやトイレなどの大量生産で大成功を収めました。1870年代には1点ものや作家ものの製作が始まり、高級路線へと舵を切りました。
1887年にはヘンリードルトンが陶工として初の称号・ナイトを授与され、1901年には王室御用達となり社名を「ロイヤルドルトン」に変更しました。現在では、モダンで都会的な陶磁器を中心に、クリスタルやテーブルクロスなど、さまざまなキッチンアイテムも取り扱っています。化学者ジョン・ドルトン(1766年9月6日~1844年7月27日)と陶磁器ブランド創業者のジョン・ドルトン(1815年創業)は、同姓同名の別人ですが、どちらもイギリスで重要な功績を残した人物として知られています。

ジョン・ドルトンの実験手法と科学への姿勢

ジョン・ドルトンの実験手法は、当時の科学者の中でも独特なものでした。ハンフリー・デービーはドルトンを「実験者としては極めて粗雑」と評し、手よりも頭で必要な結果を得ていると述べました。実際、ドルトンはより精度の高い実験器具が入手可能であっても、不正確な器具で満足していたと記録されています。
しかし興味深いことに、後の歴史家がドルトンの重要な実験を再現したところ、ドルトンの実験結果が極めて正確だったことが確認されました。これは、ドルトンが優れた洞察力と理論的思考によって、器具の不正確さを補っていたことを示しています。
ドルトンは自著『化学の新体系』の第1巻第2部の序文で、「他者の公表した結果を鵜呑みにしたことで何度もひどい目に合った」とし、可能な限り自分で確かめられたものしか採用しないという姿勢を明確にしていました。この慎重な姿勢から、ゲイ=リュサックの気体の体積についての法則も完全には受け入れず、塩素についてもデービーが正確に測定した後も自分で求めた原子質量を使い続けました。このような頑固とも言える独立性が、ドルトンの科学的業績の基盤となっていたのです。

ジョン・ドルトンの晩年と科学界での評価

ジョン・ドルトンは原子説を提唱する以前から科学界では有名でした。1804年にはロンドンの王立研究所で自然哲学の講師を務め、1809年から1810年にも講師を務めています。ただし、その講義を聴講した者によれば、声が不明瞭で説明も要領を得ず、講師としてはあまり優秀ではなかったようです。
1810年、ハンフリー・デービーが王立協会フェローにドルトンを推薦しましたが、ドルトンは恐らく経済的事情からこれを辞退しています。しかし1822年に本人の知らないうちに王立協会フェローに選出され、1826年にはロイヤル・メダルを受賞しました。1818年にはフランスの科学アカデミーの通信会員に選ばれ、1830年には外国人会員に選ばれました。
1833年、首相のチャールズ・グレイはドルトンに150ポンドの年金を授与し、1836年には300ポンドに増額しました。ドルトンは1度も結婚せず、友人も少なく、25年以上に渡って友人のW. Johnsとマンチェスターで同居していました。1837年に脳梗塞を患い、1838年の2度目の脳梗塞で言語症となりましたが、実験を続けました。1844年7月26日に最後の気象観測記録を震える手で日記に記し、翌7月27日にマンチェスターの自室で亡くなりました。

ジョン・ドルトンの遺産と現代への影響

ジョン・ドルトンの業績は現代科学に計り知れない影響を与えています。統一原子質量単位は「ドルトン(Da)」とも呼ばれ、彼の名を冠しています。月にはドルトンの名を冠したクレーターがあり、マンチェスターにはジョン・ドルトン通りがあります。
マンチェスター・メトロポリタン大学の工学部にはドルトンの名を冠した建物があり、その前にドルトンの彫像が立っています。マンチェスター大学にもドルトンの名を冠したホールがあり、化学と数学の奨学金が設けられています。Manchester Literary and Philosophical Societyはこれまでに12回、ドルトン・メダルを授与してきました。
王立化学会の無機部会は「Dalton Division」と呼ばれ、同学会の無機化学に関する学術誌は「Dalton Transactions」という名称で発行されています。植物の学名で命名者を示す場合には「Jn.Dalton」という略記が使われます。さらに、太陽変動の「ダルトン極小期」もドルトンに因んで命名されました。
1940年12月24日、Manchester Literary and Philosophical Societyの建物が爆撃を受け、ドルトンに関する資料の大部分が失われましたが、残った資料はマンチェスターのJohn Rylands Libraryが所蔵しています。ドルトンの原子説は、アントワーヌ・ラヴォアジエの質量保存の法則以来の化学史上の重大な進歩として、今なお高く評価されています。
参考リンク:ドルトンの法則の詳細な解説と計算方法については、理想気体の科学的背景を理解する上で有用です。

 

ドルトンの法則 - CRADLE用語集
参考リンク:ドルトンの原子説が提唱された歴史的背景と、質量保存の法則や定比例の法則との関係を理解できます。

 

化学の基本相法則まとめ - 理系ラボ