ヨハン・フリードリッヒ・ベトガーは1682年2月4日、ドイツのテューリンゲン州シュライツに生まれました。若い頃にベルリンへ移住したベトガーは、1701年に「金を作ることが可能である」と豪語したことで、プロイセン王フリードリヒ1世の期待を集めましたが、実際には金を生み出すことができず、王の不興を買ってベルリンを追われることになります。
参考)ヨハン・フリードリッヒ・ベトガー - Wikipedia
当時、ヨーロッパの王侯貴族たちの間では、東洋から運ばれてくる白磁器が「白い金」として珍重されていました。特に中国の景徳鎮や日本の伊万里焼は、その薄さと硬さ、そして美しい白さから、貴重な美術品として高値で取引されていたのです。
参考)アウグスト強王の情熱 マイセン磁器誕生物語
ザクセン選帝侯でポーランド王も兼ねていたアウグスト2世(強王)は、東洋磁器の熱心なコレクターであり、自国でも白磁器を製造したいという強い願望を持っていました。1700年、アウグスト2世はプロイセンから逃れてきた18歳のベトガーを捕らえ、当初は金の錬成を命じますが、やがて磁器製造の研究へと方向転換させることになります。
参考)【囚われし白磁の錬金術師】マイセン -Meissen-(ドイ…
1705年、アウグスト強王はベトガーをマイセンのアルブレヒト城に移し、物理学者のエーレンフリート・ヴァルター・フォン・チルンハウスとともに白磁器の製造研究を行わせました。チルンハウスは数学者でもあり、光学やガラス製造にも精通した科学者でした。
参考)マイセンで生まれた「白い金」 美しきドイツの白磁器たち - …
ベトガーは錬金術師としての経験を活かし、チルンハウスの科学的知識と組み合わせることで、様々な実験を繰り返しました。ザクセン公国は鉱山資源に恵まれた地域であり、ベトガーは様々な鉱物の粉と陶土を混ぜ合わせて焼成する実験を続けることができたのです。
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実験の過程で、1707年頃には赤茶色に帯びた「ベトガー・ストーンウェア」(ベトガー炻器)と呼ばれる赤色磁器の焼成に成功しました。これは白磁ではありませんでしたが、硬質で耐久性のある陶器として、後にマイセンの製品ラインナップの一つとなっています。
参考)ヨーロッパのアンティーク陶磁器 ~ポーセリン/磁器の歴史~│
1708年1月15日、7種類の試験焼成のうち3種が白く透き通った色をしていることを発見します。これは白磁焼成への大きな一歩でした。しかし、1708年9月にチルンハウスが突然体調を崩して亡くなってしまうという不幸に見舞われます。
参考)マイセン / MEISSEN
チルンハウスの死後、ベトガーは単独で研究を続け、完全な釉薬の開発に取り組みました。ヨーロッパでは長年、卵の殻などを用いた製造方法で白磁を作ろうと研究されてきましたが、ベトガーとチルンハウスはこの従来の製法を無視しました。
参考)https://www.lv-tableware.com/Meissen-minichishiki.html
彼らが注目したのは「カオリン」という鉱物でした。ザクセン地方のエルツ山地にあるアウエという鉱山で、磁器の主要な原料となるカオリンを手に入れることができたのです。カオリンと長石類を素地の主成分にすると、長石が焼成中に素地と融合して表面が半透明に輝く状態に焼き上がることを発見しました。
参考)https://wabbey.net/blogs/blog/johannfriedrichboettger
さらに、ヨーロッパの炉で一般的に焼かれていた温度よりもはるかに高い温度で焼く必要があることも解明しました。具体的には1350度から1400度という高温焼成が必要だったのです。この発見は、泥の成分を溶かし、まったく新しい物質へと変化させる画期的な技術でした。
1709年3月、ベトガーはついに白磁器の焼成に完全に成功しました。カオリン7~9(現在は65%)に雪花石膏(長石と石英)1を調合し、1400度の高温で焼くという製法を確立したのです。これはヨーロッパで初めて硬質磁器の製造に成功した瞬間であり、以後100年間、他のヨーロッパ地域では見られない大発見となりました。
白磁焼成の成功から約1年後の1709年末、ベトガーはアウグスト強王に書簡を送り、良質の白磁を量産できるようになったことを報告しました。王はすぐに部下を派遣してベトガーの主張を確認し、その成功を確信します。
1710年1月23日、アウグスト強王は「王立ザクセン磁器工場」(後の国立マイセン磁器製作所)の設立を布告しました。これがヨーロッパ最古の磁器工場の誕生です。磁器製造の機密を厳重に保持するため、工房はマイセンのアルブレヒト城に設けられ、厳重な管理体制が敷かれました。
参考)マイセンについて
アウグスト強王は製造技術が他国に流出することを極度に恐れ、ベトガーをアルブレヒト城に幽閉し続けました。当時、マイセン磁器は「白い金」と呼ばれ、莫大な財を築けるだけの価値があったため、王はその秘密を守るためにベトガーの自由を奪い続けたのです。
ベトガーは工場監督に任命され、休む間もなく赤色磁器や白磁の商品化に追い回される日々を送ります。1717年には磁器の染付けにも成功し、1722年にはマイセンのトレードマークである双剣(アウグスト強王の紋章)が窯印として使用されるようになりました。
参考)ブランド洋食器専門店のアイン / マイセン【2007年世界限…
幽閉生活によるストレスと、実験で薬品を吸い続けたことが原因で、ベトガーの心身は徐々に衰弱していきました。軟禁状態での過酷な研究生活は彼を酒に溺れさせ、精神的にも追い詰められていったと言われています。
参考)ドイツのサステナブルな街を巡る旅⑥ 300年の歴史を誇る「マ…
1719年3月13日、ベトガーはわずか37歳の若さでこの世を去りました。彼の死は早すぎる終焉でしたが、その功績はヨーロッパ陶磁器史に永遠に刻まれることになります。ベトガーの発見は、ドレスデンがヨーロッパにおける技術と芸術の中心地の一つとして発展する契機となったのです。
参考)ヨハンフリードリッヒベトガーとは - わかりやすく解説 We…
現代においても、マイセンは300年以上の伝統を守り続ける名窯として世界中で高い評価を受けています。ベトガーが解明した白磁製造技術は、その後の職人たちによって代々受け継がれ、さらに発展を遂げました。
参考)ドイツの名窯マイセン 日本公式サイト
マイセンでは現在も近くのザイリッツにある自社鉱山(世界最小の鉱山とも言われる)からカオリンを含む土を採掘し、伝統的な製法を守り続けています。ベトガーの功績は、単なる技術的発明にとどまらず、ヨーロッパの文化と芸術の発展に大きく貢献したと言えるでしょう。
錬金術師として金を作ることはできなかったベトガーですが、「白い金」と呼ばれる白磁を生み出すことで、結果的に彼は王の期待以上の価値を創造したのかもしれません。彼の物語は、失敗から学び、新たな道を切り開いた偉大な発明家の一例として、今日でも多くの人々に語り継がれています。
マイセン公式サイト:マイセン磁器の歴史について詳しい解説があります
Wikipedia:ベトガーの生涯と功績についての基本情報