プロイセン オーストリア戦争と陶器生産の変遷

1866年の普墺戦争は7週間でドイツ統一の方向を決定づけましたが、この戦争が陶磁器産業にも影響を与えたことをご存知でしょうか?戦争と食器文化の意外な関係性とは何だったのでしょうか?

プロイセン オーストリア戦争の概要

普墺戦争の重要ポイント
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ドイツ統一をめぐる主導権争い

1866年、プロイセンとオーストリアがドイツ統一の主導権を巡って衝突。7週間で決着がついた短期決戦でした

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近代技術を駆使した戦争

鉄道と電信を活用した迅速な兵力展開が勝敗を分けた、産業革命時代の新しい戦争形態でした

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プラハ条約による新秩序

ドイツ連邦の解体と北ドイツ連邦の成立により、オーストリアを除くドイツ統一への道が開かれました

プロイセン オーストリア戦争の歴史的背景と開戦

 

1866年に勃発した普墺戦争は、ドイツ統一の主導権を巡るプロイセン王国とオーストリア帝国の対立から始まりました。当時のヨーロッパではナショナリズムの高まりと国家統一の動きが顕著で、特にドイツ地域では多くの小国家が存在していました。プロイセンは新興国として台頭し、ビスマルク首相の指導のもとドイツ統一を目指していましたが、伝統的な大国であるオーストリアはこれに反対し現状維持を望んでいました。
参考)普墺戦争 - Wikipedia

戦争の直接の契機は、シュレースヴィヒ・ホルシュタインの処分を巡るガスタイン協定にオーストリアが違反したことを口実に、プロイセン軍が1866年6月7日にオーストリア領ホルシュタインに侵入した事件でした。オーストリアはプロイセン制裁のための連邦軍の動員をドイツ連邦議会に提案し、これが可決されると、プロイセンは連邦の解体と新連邦創設を主張して対決姿勢を鮮明にしました。こうして6月15日、両国は全面戦争に突入することになります。
参考)プロイセンオーストリア戦争(プロイセンオーストリアせんそう)…

開戦前、プロイセンはイタリアと軍事同盟を結んでおり、イタリアはヴェネツィア併合を目的にオーストリアに宣戦布告しました。この戦略的同盟により、オーストリアは二正面作戦を強いられることになります。プロイセンは北方のマントイフェル軍、西方のゲーベン軍、南方のバイエル軍の3方面から攻勢を開始し、ハノーファー王国など北ドイツの諸国を次々と制圧していきました。
参考)https://www.kaho.biz/huousensou.html

プロイセン オーストリア戦争のケーニヒグレーツの決戦

普墺戦争の命運を決したのは、1866年7月3日に行われたケーニヒグレーツの戦いでした。この会戦ではモルトケ指揮下のプロイセン軍22万が、ベネデック麾下のオーストリア北軍とザクセン軍合わせて21万5000に対して攻撃を行いました。プロイセン軍は鉄道を駆使して迅速に兵力を集中させ、後装式のドライゼ銃(針打ち銃)を効果的に使用してオーストリア軍を壊滅的に破りました。
参考)ケーニヒグレーツの戦い - Wikipedia

ドライゼ銃は1841年にプロイセン軍に採用された世界初の実用的ボルトアクション小銃で、長い撃針が紙製薬莢を貫いて弾底の雷管を撃発させる画期的な機構を持っていました。この銃はプロイセンの銃工ヨハン・ニコラウス・フォン・ドライゼによって発明され、1836年に完成しました。前装式銃と異なり、兵士は伏せた姿勢でも装填できるため、戦場での生存率が大幅に向上しました。この技術的優位性が、ケーニヒグレーツの戦いでのプロイセン軍の勝利に大きく貢献したのです。
参考)ドライゼ銃 - Wikipedia
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会戦後、プロイセン軍はウィーンより60km地点のニコルスブルクまで進軍しましたが、ビスマルクの政治的配慮により首都攻略は行われませんでした。ビスマルクはフランスの介入を危惧し、将来のオーストリアとの友好関係を保持するため、無割譲・無賠償・即時講和の路線で交渉を進めました。この判断は、次の普仏戦争に向けた戦略的配慮でもありました。
参考)プラハ条約(ぷらはじょうやく)とは? 意味や使い方 - コト…

プロイセン オーストリア戦争における鉄道と電信の革新的活用

普墺戦争は「7週間戦争」とも呼ばれ、産業革命を背景とする鉄道・電信・電話の利用が決定的な役割を果たしました。プロイセン参謀総長モルトケは、1859年のイタリア戦争の推移を鋭く追い、鉄道の軍事的効用を悟って鉄道網の整備を急がせました。フランスに向けて6本もの鉄道を建設し、兵馬だけでなく軍需品の一切を鉄道で運ぶ体制を構築しました。
参考)https://ameblo.jp/matsui6520/entry-12503531429.html

モルトケは軍隊内に鉄道部と電信部を創設し、高密度のダイヤグラムから成る鉄道輸送計画を電信で暗号化された命令により関係者に伝達しました。動員令が下ってから数時間以内に軍隊の移動体制が整い、プロイセン軍は迅速に敵地に侵入して占領地での鉄道網を自軍の利益に転じさせることができました。この電撃作戦の成功により、フランスの鉄道員がサボタージュを組織する間もなく軍事行動を完遂できたのです。​
電信技術は何百キロメートルも離れた総司令部と前線の交信を瞬時に可能にし、それまでの軍太鼓、ラッパ、手旗信号を時代遅れのものとしました。電信は政府と戦場指導者の間を緊密に結んだだけでなく、前線に派遣された新聞特派員が戦闘のもようを逐次報告することで、銃後の国民も戦況をリアルタイムで知ることができるようになりました。鉄道と電信の結合により、前線と後方が密接につながる新しい戦争の形態が生まれたのです。
参考)https://linzamaori.sakura.ne.jp/watari/reference/Moltkeplan4.pdf

プロイセン オーストリア戦争の結果とプラハ条約の内容

普墺戦争は7月26日のニコルスブルク仮条約の後、8月23日にプラハ条約が締結されて正式に終結しました。この条約の主な内容は以下の通りです。まずドイツ連邦の解体が正式に定められ、北ドイツ連邦と南ドイツ連邦が発足することになりました。プロイセンを中心としたドイツ統一への道が開かれ、オーストリアはドイツ統一に不干渉とすることが決定されました。
参考)プラハ条約 (1866年) - Wikipedia

シュレースヴィヒ・ホルシュタイン両公国、ハノーファー王国、ヘッセン選帝侯国、ナッサウ公国、フランクフルト自由市がプロイセンに帰属することとなりました。また、ヴェネツィア(当時はロンバルド=ヴェネト王国としてオーストリア領だった)はイタリア王国に割譲されました。敗れたオーストリアは賠償金2,000万ターラー(一説には4,000万ターレル)を支払うことになりましたが、これは後の普仏戦争の賠償金と比べて少額でした。
参考)ヴェネツィア併合

プラハ条約の締結にあたり、ビスマルクは軍部の意見を抑えてオーストリアに寛大な処置をとりました。これはヨーロッパ列強の介入を憂慮し、将来のオーストリアとの友好を保持することを希望したためでした。こうしてドイツ統一はオーストリアの影響を廃して小ドイツ主義のプロイセン主導で行われることとなり、次の普仏戦争でドイツ統一が完成することになります。​

プロイセン オーストリア戦争と国境地帯の陶磁器産業への影響

普墺戦争の影響は軍事や政治だけでなく、国境地帯の陶磁器産業にも及びました。フランスとドイツの国境に位置するサルグミンヌは、1770年に創業された陶磁器の古窯で、フランスの食卓文化を彩る重要な産地でした。サルグミンヌ窯の製品は創業初期の陶器から始まり、上質な磁器、陶器、マジョリカ装飾タイルへと多様化していきました。
参考)フランスの食卓を彩った古窯、サルグミンヌ

サルグミンヌ窯の主な素材は、粘土と粉砕された石英を混ぜ合わせたファイアンスと呼ばれる陶器でしたが、上質な磁器やストーンウェア(炻器)も製造していました。特筆すべきは、1830年代から導入されたリトグラフや転写印刷といった新しい技術で、これにより装飾された皿を大量生産することが可能になりました。この技術革新により、装飾された食器がより多くの人々に手頃な価格で提供されるようになり、食卓の風景を豊かにする上で重要な役割を果たしました。​
フランス軟質磁器のパイオニアであるサン・クルー窯も、戦争の影響を受けた窯の一つです。1870年の普仏戦争の際、サン・クルー城はドイツ軍の猛攻にあい焼き尽くされてしまいました。このように19世紀後半のプロイセンによるドイツ統一戦争は、国境地帯の陶磁器産業に物理的な被害だけでなく、領土の変更や市場の再編成など、長期的な影響を及ぼしたのです。普仏戦争後、リモージュのアビランド工房では新しいデザインを模索するなど、戦争後の復興と革新の動きが見られました。
参考)https://wabbey.net/blogs/blog/saintcloud