西暦708年(慶雲5年)正月11日、武蔵国秩父郡(現在の埼玉県秩父市黒谷)から自然銅が朝廷に献上されました。この銅は「ニギアカガネ」と呼ばれる精錬を必要としない純度の高い自然銅で、当時としては非常に貴重な発見でした。元明天皇はこれを大いに喜び、同日に元号を「慶雲」から「和銅」へと改元しました。年号を変えるほどの重要な出来事として、『続日本紀』にも詳細に記録されています。
この和銅発見をきっかけに、同年5月には日本最初の流通貨幣となる「和同開珎」の鋳造が開始されました。まず銀銭が発行され、その後7月26日に銅銭の鋳造が始まり、8月10日に発行されたことが史料に明記されています。和同開珎は約50年にわたって流通し、日本の貨幣経済の基礎を築く重要な役割を果たしました。
和銅の発見には、大和朝廷から派遣された日下部宿弥、津島朝臣堅石、そして帰化人で金鉱技師であった金上无の3人が関わっていたと伝えられています。彼らは里人から和銅が地表に露出していると聞き、蓑山(美の山)付近の渓流沿いを探索していた際に、この貴重な鉱脈を発見したとされています。
和銅採掘遺跡の最大の特徴は、地殻変動によって形成された「出牛黒谷断層」にあります。この断層は秩父古成層(約2億年前の三波川帯の岩石)と第三紀層(約1500万年前の秩父盆地の地層)との境界部分に位置しています。造山活動による断層の破砕帯に、銅を含む熱水が上昇し、自然銅として凝結・露出したものと考えられています。
現在も残る露天掘跡は、100メートルを超える二条の断層面として観察できます。山の斜面に沿って縦に延びる鉱脈を追って、上部まで掘り進めた跡が明瞭に残されています。ただし興味深いことに、現地で観察できる岩石は主にチャートと砂岩であり、銅を含む地層そのものは現在確認できません。
しかし、地元の聖神社には自然銅の塊が奉納されており、秩父地域の三波川帯の中で銅鉱石が何か所も確認されていることから、銅を含む岩石が風化し、水中に沈殿した自然銅をこの地で採掘した可能性が地質学的に指摘されています。断層という特殊な地質構造が、自然銅の露出と採掘を可能にしたのです。
和銅採掘遺跡では、古代の露天掘跡だけでなく、中世から近世にかけての鉱山開発の痕跡も確認されています。和銅山南方の「金山」には、約500年から300年前(中世~近世)に銅を採掘したと見られる鉱洞と製錬所跡が残されており、「黒谷銅製錬所阯」として秩父市指定史跡に指定されています。
古代の銅製錬技術は、鉱山のある山元で粗銅(荒銅)まで製錬し、その後大阪などの都市部で精製する方式が取られていました。秩父でも採掘された銅鉱石を現地で一次製錬し、朝廷へ献上する形で運搬されたと考えられます。自然銅の場合は精錬を必要としないため、そのまま溶解して鋳造に使用できる点が大きな利点でした。
製錬所跡周辺には複数の坑道が掘られた痕跡があり、時代を経て採掘技術が進化していった様子が窺えます。秩父地域には和銅採掘に関連する地名や言い伝えが数多く残されており、「殿地」など銅の産出や献上、鋳造、運搬にちなむとされる地名が点在しています。これらは和銅採掘が単なる一時的な発見ではなく、地域の産業として継続的に行われていたことを示す重要な証拠です。
秩父市和銅保勝会公式サイト
和銅遺跡の全体像と見学コースの詳細情報、露天掘跡や製錬所跡へのアクセス方法が掲載されています。
和銅採掘遺跡と深い関わりを持つのが、和銅献上により創建されたとされる聖神社(ひじりじんじゃ)です。この神社は和銅をご神体として祀り、金山彦命(かなやまひこのみこと)を主祭神としています。金山彦命は金属や鉱物を司る神様として知られ、豊かな金運をもたらすとされています。
聖神社は「銭神様」として親しまれ、金運アップのパワースポットとして全国から参拝者が訪れています。境内には和同開珎を形どった巨大なモニュメントが建てられており、絵馬にも和同開珎のデザインが採用されています。参拝者からは「宝くじが当選した」「事業が成功した」といった金運上昇の報告が多数寄せられており、現代においても信仰を集め続けています。
和銅採掘露天掘跡にも同様に和同開珎の巨大モニュメントが設置されており、聖神社から徒歩約15分の距離にあります。採掘跡近くには「銅洗堀」と呼ばれる小川が流れており、この水でお金を洗うと金運アップの強力なご利益が得られるという言い伝えが残されています。聖神社と和銅採掘遺跡を合わせて巡ることで、より強い金運の流れが得られるとされ、多くの参拝者が両方を訪れています。
和銅採掘遺跡は、その歴史的価値が認められ、複数の文化財指定を受けています。秩父市黒谷1918番地の和銅山にある露天掘跡は、最初の銅発見地と伝えられる場所として、1922年(大正11年)に埼玉県指定史跡となり、1961年(昭和36年)9月1日には埼玉県指定旧跡に指定されました。また2000年(平成12年)5月5日には、埼玉新聞社の「21世紀に残したい・埼玉ふるさと自慢100選」にも選出されています。
中世から近世の銅採掘の痕跡である黒谷銅製錬所阯(秩父市黒谷1667番地)は、1956年(昭和31年)3月25日に秩父市指定史跡に指定されました。これらの文化財指定により、1300年以上にわたる銅採掘の歴史が総合的に保護されています。
現在、和銅採掘遺跡へは秩父鉄道秩父本線の和銅黒谷駅が最寄り駅となっており、駅から徒歩約5分で聖神社へ、神社から徒歩約15分で和銅採掘露天掘跡へアクセスできます。見学コースは整備されており、初心者向けの「和銅採掘露天掘跡コース」と、より本格的な「製錬所跡と金山鉱山跡コース」の2つが用意されています。山道を歩くコースのため、歩きやすい服装や靴での訪問が推奨されています。
和銅遺跡周辺には和銅関連の標本350点余りを展示する施設もあり、当時の採掘技術や自然銅の実物を観察することができます。地域全体で和銅の歴史を保存し、後世に伝える取り組みが続けられています。
和銅採掘遺跡は、鉱石に興味を持つ人々にとって、日本の鉱業史と地質学を同時に学べる貴重なフィールドです。一般的な銅鉱山では硫化銅鉱物(黄銅鉱など)を採掘して製錬するのに対し、ここでは自然銅という純粋な金属状態の銅が直接採取できた点が特異です。世界的に見ても、自然銅が経済的に採掘できる規模で産出する場所は限られており、和銅採掘遺跡はその希少な例の一つとして地質学的に重要です。
現地を訪れると、断層という地質構造が鉱物の形成と露出にどのように関与したかを実際に観察できます。出牛黒谷断層の破砕帯という特殊な環境が、銅を含む熱水の通路となり、自然銅の沈殿を促したプロセスを理解することができます。また、露天掘跡の規模から、当時の採掘技術のレベルや労働力の投入状況を推測することも可能です。
さらに興味深いのは、同じ地域で古代から近世まで継続的に銅採掘が行われていた事実です。これは秩父地域が銅の鉱床帯として地質学的に恵まれていたことを示しています。三波川帯に属する地質構造が、複数の時代にわたって銅資源を提供し続けたという歴史は、日本の鉱業史において重要な位置を占めています。
鉱物標本の観点からも、聖神社に奉納されている自然銅の実物は必見です。純度の高い銅の塊は、赤銅色の金属光沢を持ち、まさに「ニギアカガネ(熟銅)」の名にふさわしい美しさを持っています。このような実物資料を通じて、古代の人々が自然銅に感じた驚きと価値を追体験することができるのです。
和銅採掘遺跡は、単なる歴史的な採掘跡ではなく、地質学、鉱物学、採掘技術史、そして文化史が交差する総合的な学習の場として、現代の鉱石愛好家に多くの知見を提供し続けています。