深海の熱水噴出孔に生息するチューブワーム(和名:ハオリムシ)は、1977年にガラパゴス諸島沖でアルビン号により初めて発見された生物です。最初の印象は、白い筒のような外殻の先端に赤い花のような構造が付いている、非常に奇妙な姿です。この赤い部分はハオリと呼ばれる羽状器官で、酸素と硫化水素を吸収するための重要な器官です。
参考)https://ameblo.jp/nishinaka-d/entry-11894146875.html
チューブワームの体長は数十センチメートルから数メートルに及ぶ個体も存在し、1~3メートルの大きさが一般的です。外側は硬い筒状の殻で覆われており、エビやカニのような硬度があります。一方、内側の主要部分である「トロフォーム」と呼ばれる組織は、ソーセージのように軟らかい状態です。この内部構造は、何を食べるのかという謎を解く上で重要な手がかりになります。
参考)Special Story 深海 — もうひとつの地球生物圏…
最も驚くべき点は、チューブワームが口も消化管も肛門ももたないという事実です。通常の生物であれば、これらの器官がなければ生存は不可能です。しかし、チューブワームはこの制限を克服し、深海底で数百万年以上にわたって生き続けてきました。この生存戦略の根底にあるのが、独特な共生関係なのです。
チューブワームの味について、研究者たちが行った実験的な検証により、その風味が「ドブの味」と表現されるようになりました。この表現は、慶応大学の生物学者である長沼毅氏が、チューブワームのトロフォーム部分を取り出して吹いて調べた時の発言として有名です。チューブの後部に口をつけてプッと吹くと、頭部からニュルッとピューッと出てくるトロフォーム部分から出てくる液体は、硫黄特有の不快な臭いを伴い、味わいとしてはドブのような風味を持つとのことです。
参考)https://www.hitachi-zaidan.org/reference-room/data/work04_22.pdf
この「ドブの味」という表現は、単なる主観的な評価ではなく、化学的な現実を反映しています。チューブワームが生息する深海熱水噴出孔では、硫化水素ガスが豊富に放出されています。通常の生物にとって硫化水素は致死的な毒物ですが、チューブワームはこの極端な環境で生きるために、体内の構成物質自体が硫化水素との接触に最適化されています。そのため、その組織から放散される化学成分には必然的に硫黄系の化合物が含まれ、結果として不快な臭気と風味が生まれるのです。
参考)ジャイアントチューブワームとは - 海人の深深たる海底に向い…
硫化水素は腐った卵のような臭いで知られており、下水処理施設やドブなどで強く感じられる臭気成分です。チューブワームの組織に含まれる硫黄化合物は、この硫化水素由来の化学物質を含んでいるため、同様の臭気が発生するのは物理化学的に必然の結果なのです。つまり、「ドブの味」とは、深海という極限環境に完全に適応した生物の化学的現実を的確に表現した言葉なのです。
チューブワームが「ドブの味」を持つ根本的な理由は、体内に共生している硫黄酸化細菌(イオウ酸化細菌)にあります。この共生関係は、地球上で最も異なる生活戦略の一つです。チューブワームは何も食べません。代わりに、ハオリ器官から深海熱水に含まれる硫化水素と酸素の両方を取り込み、体内の硫黄酸化細菌に供給します。これらの細菌は硫化水素を酸化(燃焼)することで化学エネルギーを得て、そのエネルギーを使って二酸化炭素から有機物を合成するのです。
参考)謎の深海生物「チューブワーム」が生命の起源の謎を解く|辺境生…
硫黄酸化細菌の代謝過程では、硫化水素の酸化に伴い、様々な中間代謝産物が生成されます。これらの産物には、硫黄を含む複雑な有機化合物が多く含まれており、チューブワームの組織にはこれらの物質が蓄積します。結果として、チューブワームの組織全体が硫黄系化学物質に富む状態になり、これが「ドブの味」という風味を生み出すのです。
驚くべきことに、チューブワームの体重の半分以上が、体内の共生する硫黄酸化細菌から構成されています。つまり、チューブワーム自体というよりも、むしろ共生細菌のコロニーの方が、その生物量としては支配的なのです。この共生菌の代謝産物が、チューブワームの味わいを決定する主要な要因なのです。
チューブワームが採用する化学合成という栄養獲得方法は、地球上の大多数の生物が依存する光合成と比較して、根本的に異なる化学環境を生み出します。光合成では、太陽光エネルギーを使用して水と二酸化炭素から有機物が合成されます。一方、化学合成では、硫化水素などの無機化学物質の酸化反応で放出されるエネルギーが利用されます。
この化学合成過程で特に重要なのは、酸化還元反応で生成される中間産物です。硫化水素から硫黄、さらに硫酸塩へと酸化される過程では、二硫化物結合や有機硫黄化合物などの複雑な化学物質が形成されます。これらの物質は、チューブワーム組織に蓄積し、その味わいと臭気を決定します。具体的には、メチルチオアセテート、メチルチオプロピオネート、ジメチルジスルフィドなどのイオウ化合物が形成され、これらが「ドブの味」の本質を構成するのです。
実際のところ、深海熱水噴出孔から放出される流体自体も、複雑な化学成分を含んでいます。硫化水素の他に、メタン、アンモニア、金属イオンなど様々な物質が含まれており、チューブワームはこれらの複合的な化学環境に完全に適応しています。その結果、チューブワームの味わいは、太陽光が届く表層海での生物とは全く異なる化学的背景を持つのです。
チューブワームの味わいを科学的に分析することは、深海生態系の理解を深める上で重要です。チューブワームが生息している環境では、硫化水素の濃度が通常の生物にとって致死量に達するほど高くなっています。一般的な海水中の硫化水素濃度は非常に低いですが、熱水噴出孔直下では、この毒性物質が大量に存在するのです。
参考)北極圏海底に、300年生きる生物たちの楽園があった|ニューズ…
この極限環境への適応は、単なる生理的なものではなく、チューブワームの組織化学的な構成そのものに反映されています。細胞膜から内部構造まで、チューブワーム全体が硫黄化合物との相互作用に最適化されています。このため、チューブワームの各組織から放散される化学物質には、必然的に硫黄系の臭気分子が含まれるようになるのです。
興味深いことに、チューブワームは体内に複数種類の微生物を共生させていることが多く、それぞれが異なる化学反応を触媒していることが明らかになっています。これにより、単一の代謝経路ではなく、複数の化学反応系が並行して進行し、より複雑な中間産物が生成されます。この多様な微生物代謝が、チューブワームの味わいをより複雑で、より「ドブ的」にしているのです。
また、チューブワームの味わいが時間とともに変化する可能性も指摘されています。共生する細菌の活動レベルや、外部環境の変化により、代謝産物の組成が変動する可能性があるのです。つまり、チューブワームの味は固定的なものではなく、深海の複雑な化学的条件に応じて、常に変化し続けているのです。
深海熱水噴出孔の環境は、3億5000万年以上前から存在していたとされ、最古のチューブワーム化石が示すように、この環境はきわめて安定した生態系を維持してきました。その中で、チューブワームの味わいもまた、地球生命史の一部として、深海の化学的リアリティを象徴する存在として存在し続けているのです。
参考:チューブワームの化学合成代謝と深海生態系に関する研究
Wikipedia チューブワーム
参考:深海生物の生命の起源と化学合成についての専門的解説
幻冬舎 謎の深海生物チューブワーム 長沼毅