1851年に開催された第1回ロンドン万国博覧会は、正式名称を「万国の産業の成果の大博覧会」といい、世界初の本格的な国際博覧会として歴史に名を刻みました。アルバート公の発案により、ロンドンのハイドパークに建設された「クリスタル・パレス」と呼ばれる巨大なガラスと鉄骨の建物で開催され、当時の最先端技術と芸術が一堂に会する場となりました。
この博覧会には世界中から約14,000の出展者が参加し、600万人以上の来場者を記録しました。産業革命の最盛期にあったイギリスが主導したこの博覧会は、各国の産業技術や芸術文化の交流の場となっただけでなく、多くの陶磁器メーカーにとって世界的な名声を獲得する絶好の機会となりました。
特に注目すべきは、この博覧会が単なる展示会ではなく、各国の製品を競い合う場でもあったことです。金賞や銀賞などの賞が設けられ、受賞することで製品の価値と信頼性が大きく高まりました。陶磁器産業にとっては、自国の技術力を世界に示すとともに、新たな市場開拓の足がかりとなる重要なイベントだったのです。
第1回の成功を受けて、1862年には第2回ロンドン万国博覧会が開催されました。この回では日本のコーナーが初めて設けられ、初代駐日英国公使R・オールコックが収集した日本の美術工芸品(623点)が展示されました。この中には卵殻手の陶磁器製品も含まれており、日本の陶磁器が初めて公式に世界に紹介される機会となりました。
ヨーロッパを代表する陶磁器ブランド「ヘレンド」の歴史において、1851年の第1回ロンドン万国博覧会は決定的な転機となりました。1826年にハンガリーの首都ブダペスト郊外の小さな村で創業したヘレンドは、当時すでにハンガリーの帝室・王室御用達の磁器製作所として認められていましたが、世界的な知名度はまだありませんでした。
ロンドン万博に出展されたヘレンドの作品は、その精緻な細工と美しい絵付けでヴィクトリア女王の目に留まります。女王はその場でディナーセットを注文し、これがヘレンドの運命を大きく変えることになりました。このディナーセットには牡丹の花と蝶があしらわれており、当時ヨーロッパを席巻していたシノワズリ(中国趣味)を写したデザインでした。女王の名にちなんで「ヴィクトリア」と名付けられたこのパターンは、現在もヘレンドを代表する柄として大切に作り続けられています。
ヴィクトリア女王の注文は、ヘレンドの名声をヨーロッパの王侯貴族の間に広める契機となりました。その後、ヘレンドは1853年のニューヨーク万国産業博覧会、1854年のパリ万博、1862年の第2回ロンドン万博でも1等賞を受賞し、国際的な評価を不動のものとしていきました。
特に1862年の第2回ロンドン万博では、「ポジョニの国会」と名付けた大皿を出展し、オーストリア継承戦争で劣勢に追い込まれた女帝マリア・テレジアが幼い息子を抱きながらハンガリーの国会で支援を求めた歴史的場面を描いた作品で1等賞を受賞しています。この作品は、単なる美術工芸品としてだけでなく、ハンガリーの歴史と誇りを表現した政治的メッセージも含んでいました。
2011年には、ウィリアム皇太子とキャサリン妃のロイヤルウェディングの際にも、「ヴィクトリア」パターンのディナーセットがお祝いとして贈られており、160年以上経った今でもその伝統と価値が認められています。
日本の陶磁器が国際的な舞台に初めて登場したのは、1862年の第2回ロンドン万国博覧会でした。この時、初代駐日英国公使ラザフォード・オールコックが日本で収集した623点の美術工芸品が展示され、その中には卵殻手の陶磁器製品も含まれていました。これらは有田や三川内の製品であったと考えられていますが、詳細は明確ではありません。
この展示は、当時まだ開国して間もない日本の工芸品を初めて世界に紹介する機会となりました。しかし、興味深いことに、この時の展示品は訪欧中の日本使節団には粗末に見え、不評だったという記録が残っています。これは、オールコックが収集した品々が必ずしも当時の日本人が誇りとする最高品質のものではなかった可能性を示唆しています。
その後、1867年のパリ万国博覧会では、幕府、薩摩藩、佐賀藩が個別に参加し、両藩から多くの陶磁器が出品され好評を博しました。この成功を受けて、明治政府は1873年のウィーン万国博覧会に国を挙げて参加します。この博覧会のために、政府は博覧会事務局附属磁器製造所(東京錦窯)を特設し、出品作品の制作に力を入れました。
ウィーン万国博覧会では、瀬戸、美濃、京都、有田、薩摩、九谷などから200点以上の陶磁器が出品され、有田の作品が名誉状を受賞するなど大成功を収めました。この参加の成功を受け、1876年のフィラデルフィア万国博覧会、1878年のパリ万国博覧会と続けて参加し、日本の陶磁器を重要な輸出品として売り込みを図りました。
これらの万国博覧会への参加は、日本の陶磁器が大量に欧米諸国に輸出されるきっかけとなり、明治時代の輸出産業の柱の一つとなっていきました。特に花鳥図や武者絵など、日本的な題材が写実的に表現された豪奢で精緻な作風は、西洋におけるジャポニスムの流行の一端をなし、高い評価を得ました。
ロンドン万国博覧会が開催された19世紀半ばは、ヨーロッパにおけるシノワズリ(中国趣味)の流行が変化する時期でもありました。17世紀後半から18世紀後半にかけて東インド会社によってもたらされた東洋の品々は、ヨーロッパ人の間で熱狂的なブームを引き起こし、建築や家具、織物、そして陶磁器にも中国風のモチーフが盛んに取り入れられていました。
マイセンをはじめとするヨーロッパの磁器窯は、当初中国や日本の陶磁器を忠実に模倣することから始まりましたが、次第に独自のデザインを模索するようになっていました。興味深いことに、ヘレンドがシノワズリデザインを自社に取り入れ始めた19世紀半ばは、実はシノワズリデザインの流行が下火になっていた時期でした。
しかし、ヘレンドは従来のシノワズリ文様を独自に再構成することで、新しいシノワズリを創出しました。特に「マンダリン」の呼び名で人気を集めた立体的な唐子人形や、トカゲ・獅子のモチーフが蓋のつまみやカップの持ち手にあしらわれているシリーズは、他の窯の作品とは一線を画す独創的なデザインでした。
このデザインは1840年代、ヘレンド二代目当主モール・フィッシャーの時代に、中国磁器の写しから生まれたとされています。牡丹や不思議な動物たちと装飾模様が丹念に描かれた陶磁器は、ヘレンドシノワズリの世界観を見事に表現し、使い古されたデザインではなく新鮮な感覚で作品を作り続けたことによって、シノワズリは現代に至るまで人気のシリーズとなりました。
ロンドン万国博覧会は、こうした各窯元の革新的なデザインを世界に紹介する場となり、陶磁器デザインの国際的な交流と発展に大きく貢献しました。博覧会での成功を受けて、各窯元はさらに独自性を追求し、伝統と革新のバランスを取りながら新たな市場開拓に乗り出していったのです。
ロンドン万国博覧会の成功は、その後の陶磁器産業に大きな影響を与え、19世紀後半から20世紀初頭にかけての陶磁器産業の発展に重要な役割を果たしました。特に注目すべきは、博覧会を契機に陶磁器の輸出が活発化し、国際的な市場が拡大したことです。
日本の場合、明治政府は殖産興業・輸出振興政策の一環として陶磁器産業を重視し、国内でも明治10年(1877年)から内国勧業博覧会を開催して技術向上と産業発展を促進しました。当初は装飾的な美術工芸品が中心でしたが、明治15年(1882年)頃からの世界的不況を経て、輸出の対象は次第に花瓶などの装飾品から飲食器などの実用品へと転換していきました。
また、明治26年(1893年)のシカゴ・コロンブス万国博覧会では、日本の出品物が初めて美術品として扱われるようになり、陶磁器の芸術的価値が国際的に認められるようになりました。しかし、明治33年(1900年)のパリ万国博覧会では、アール・ヌーヴォー様式が大流行する中、日本は旧態依然とした東洋的な絵付けで出品し、その意匠に対して厳しい評価を受けることになります。
この経験から、日本国内で図案研究の流れが生まれ、釉薬の科学的研究など様々な技術改良が進められました。また、実業教育機関の設立が全国に広がり、後の日本窯業界を牽引する人材育成も進められました。この時期から、会社や商人の制作依頼を請け負ってきた職工とは別に、個人の名で制作する作家が現れ始め、明治政府による顕彰制度である帝室技藝員制度も、彼らが美術工芸家として活動する体制を整えることにつながりました。
現代においても、ロンドン万国博覧会の遺産は様々な形で生き続けています。ヘレンドの「ヴィクトリア」パターンは今も人気を誇り、2011年のウィリアム皇太子とキャサリン妃のロイヤルウェディングの際にもお祝いとして贈られました。また、かつて輸出された日本の明治期の陶磁器は、現在国内外の美術館やコレクターによって収集され、その技術の高さが再評価されています。
近年では、伝統的な技法と現代的なデザインを融合させた新しい陶磁器製品が生み出されており、グローバル化が進む中でも各国・各地域の独自性を保ちながら発展を続けています。ロンドン万国博覧会が切り開いた国際的な交流と競争の場は、今日のグローバルな陶磁器市場の原点となったと言えるでしょう。
さらに、現代の国際博覧会(万博)においても、陶磁器は各国の文化や技術を示す重要な展示物として位置づけられており、170年以上前に始まったロンドン万国博覧会の精神は、形を変えながらも受け継がれています。2025年に大阪で開催される予定の日本国際博覧会(大阪・関西万博)でも、最新技術と伝統工芸の融合など、新たな陶磁器の可能性が示されることでしょう。