クラウディウス・インノセンティウス・デュ・パキエとマイセン磁器の秘密

ヨーロッパ磁器の歴史を変えた謎の人物、クラウディウス・インノセンティウス・デュ・パキエ。マイセンの秘密を盗み、ウィーン窯を創設した彼の知られざる物語とは?彼の執念がなければ、今日の陶磁器文化はどう変わっていたでしょうか?

クラウディウス・インノセンティウス・デュ・パキエとマイセン

マイセン磁器の秘密を盗んだ男
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オーストリアの軍事官

オランダ出身でオーストリア帝国軍事官だったデュ・パキエは、マイセンの磁器製造秘密を手に入れるため執念の工作活動を展開

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ウィーン窯の創設者

1718年、マイセンから盗んだ技術と人材を使ってウィーンに磁器工房を設立、後のアウガルテン窯の基礎を築く

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産業スパイの先駆者

ヨーロッパ初の組織的産業スパイ活動を展開し、マイセンの厳重な秘密管理を突破した戦略家

クラウディウス・インノセンティウス・デュ・パキエの経歴と東洋磁器への情熱

クラウディウス・インノセンティウス・デュ・パキエは、オランダ出身の人物で、オーストリア帝国の軍事官として活躍していました。彼の生涯については詳細な記録が少ないものの、18世紀初頭のヨーロッパ陶磁器史において極めて重要な役割を果たしました。

 

当時のヨーロッパでは、東洋からもたらされた磁器が「白い黄金」と呼ばれるほど珍重されていました。この磁器への憧れは13世紀末にマルコ・ポーロの『東方見聞録』によってヨーロッパに伝えられ、17世紀にオランダ東インド会社が大量の中国磁器を輸入したことで、さらに高まりました。特に白く半透明な肌を持つ磁器は、ヨーロッパの王侯貴族たちを魅了し、「磁器に毒入りの食物が入れられると粉々に壊れる」といった迷信まで生まれるほどでした。

 

デュ・パキエもこの東洋磁器の魅力に取り憑かれた一人でした。彼がマイセンでの磁器製造成功のニュースを聞いたとき、その技術を手に入れようと決意したのは、単なる商業的野心だけでなく、東洋の神秘に対する深い憧れがあったからでしょう。

 

彼の軍事的背景は、後の組織的なスパイ活動において大いに役立ちました。軍事官としての戦略的思考と行動力が、マイセンの厳重な秘密管理を突破する原動力となったのです。

 

クラウディウス・インノセンティウス・デュ・パキエによるマイセン窯からの技術スパイ活動

デュ・パキエによるマイセン窯からの技術スパイ活動は、ヨーロッパ初の本格的な産業スパイと言えるでしょう。彼の活動は非常に組織的かつ戦略的でした。

 

まず最初に、デュ・パキエはマイセン工房からエナメル塗師のクリストフ・コンラート・フンガーを秘かに引き抜くことに成功しました。しかし、マイセン窯では磁器製造の秘密を守るため、工程を分離して管理していたため、フンガー一人では磁器製造の全体像を把握しておらず、ウィーンでの磁器製造は成功しませんでした。

 

諦めなかったデュ・パキエは、次にベトガーの助手として焼成や粘土の下ごしらえを担当していたサムエル・ステルツェルを引き抜きました。さらに、ベトガーの義理の兄弟を通じて、マイセンの同僚が作った磁器焼成窯の紙模型まで入手することに成功したのです。

 

このように、デュ・パキエは単に一人の技術者を引き抜くのではなく、磁器製造に必要な複数の要素を計画的に集めていきました。彼の執拗なスパイ活動は、当時としては前例のない規模と精密さを持っていました。

 

興味深いことに、マイセン窯では磁器製造の秘密を守るため、素地の配合を管理する者と釉薬を管理する者を分け、全工程を知っているのはベトガー一人だけという厳重な管理体制を敷いていました。それにもかかわらず、デュ・パキエはこの防衛網を突破し、必要な情報と人材を集めることができたのです。

 

一説によると、この一連の情報漏洩の裏側には、ベトガー本人が関与していたのではないかという指摘もあります。長年投獄状態で研究を強いられていたベトガーが、何らかの形で自らの技術の流出を黙認、あるいは間接的に助けていた可能性も考えられるでしょう。

 

クラウディウス・インノセンティウス・デュ・パキエが設立したウィーン窯の歴史

デュ・パキエは、マイセンから盗み出した技術と人材を基に、1718年にウィーンに磁器工房を設立しました。これがのちのウィーン窯(後のアウガルテン窯)の始まりです。ベトガーの死の翌月には、ウィーンの地で初めて磁器が焼成されたという記録があります。

 

ウィーン窯の設立は、ヨーロッパ磁器史における重要な転換点となりました。マイセン以外の地でも高品質の磁器が製造可能であることを証明し、その後のヨーロッパ各地での磁器製造の広がりに大きな影響を与えたのです。

 

しかし、デュ・パキエの事業は当初、予想したほどの利益を上げることができませんでした。そのため、フンガーやステルツェルといった技術者たちに約束していた報酬を支払うことができなかったのです。失望したフンガーはウィーンを去り、ヴェネツィアに移住して、そこで最初の磁器製造工房の立ち上げに関わることになりました。

 

一方、ステルツェルはマイセンに戻ることを選びました。興味深いことに、彼は贖罪の証として若い画家ヨハン・グレゴール・ヘロルトをマイセンに連れ帰りました。このヘロルトは後にマイセン窯の絵付けを高度なレベルに引き上げる重要な人物となり、皮肉にもステルツェルの「裏切り」がマイセン窯の発展に貢献することになったのです。

 

1725年に製造されたヴァーズ(花瓶)には、自らが作った磁器を見つめるデュ・パキエの姿が描かれています。これは彼の磁器への情熱と誇りを示す貴重な証拠と言えるでしょう。

 

クラウディウス・インノセンティウス・デュ・パキエの磁器製造技術と作品の特徴

デュ・パキエがウィーンで製造した磁器は、マイセン磁器の技術を基礎としながらも、独自の特徴を持っていました。ウィーン窯の初期の作品は、中国や日本の東洋磁器の影響を強く受けていましたが、次第にウィーン独自のスタイルを確立していきました。

 

ウィーン窯の磁器の特徴として、以下の点が挙げられます。

  • 白さと透明感:マイセン同様、白く半透明な質感を持つ高品質な磁器を目指しました。

     

  • 装飾技法:エナメル彩画を中心とした繊細な絵付けが特徴で、特に金彩を効果的に使用しました。

     

  • モチーフ:初期は東洋風の文様が中心でしたが、次第にウィーンの宮廷文化を反映した優雅なデザインへと発展しました。

     

  • 形状:バロック様式からロココ様式への移行期の特徴を反映した、曲線的で装飾的な形状の作品が多く見られます。

     

デュ・パキエ自身は磁器の製造技術よりも、事業の経営と技術者の確保に力を入れていたようです。彼は自らの名を冠した特別な作品を製作させ、その中には自画像を描かせたものもありました。1725年に製造されたヴァーズに描かれた彼の姿は、磁器製造者としての誇りと自負を表現しています。

 

ウィーン窯の初期の作品は現存するものが少なく、美術館やプライベートコレクションに収められている貴重なものとなっています。これらの作品は、マイセン磁器との類似点を持ちながらも、微妙な違いがあり、専門家の間で研究対象となっています。

 

クラウディウス・インノセンティウス・デュ・パキエがヨーロッパ磁器産業に与えた影響

デュ・パキエの最大の功績は、マイセンが独占していた磁器製造の秘密をヨーロッパ各地に広めるきっかけを作ったことでしょう。彼の活動がなければ、ヨーロッパの磁器産業の発展はもっと遅れていたかもしれません。

 

デュ・パキエの影響は以下のような形で現れています。

  1. 技術の拡散:マイセンの秘密を破り、ウィーンで磁器製造を成功させたことで、他の地域でも磁器製造が可能であることを証明しました。フンガーがウィーンからヴェネツィアに移り、そこで磁器工房の設立に関わったように、技術者の移動によって磁器製造技術はヨーロッパ中に広がっていきました。

     

  2. 競争の促進:マイセンの独占状態が崩れたことで、ヨーロッパ各地の窯元間で技術革新と芸術的表現の競争が生まれました。この競争がヨーロッパ磁器の多様性と品質向上につながりました。

     

  3. 産業モデルの確立:デュ・パキエは、技術者の引き抜きや情報収集という、現代の産業スパイに通じる手法を先駆的に実践しました。これは後の陶磁器産業だけでなく、他の産業分野にも影響を与えた可能性があります。

     

  4. 文化的影響:マイセンとウィーンを中心に始まった磁器製造は、ヨーロッパの食文化や生活様式にも大きな変化をもたらしました。それまで貴族のみが所有できた東洋磁器が、ヨーロッパ製の磁器によって徐々に広い層に普及していったのです。

     

  5. 芸術的発展:各地の窯元が独自のスタイルを模索する中で、磁器は単なる実用品から芸術作品へと発展していきました。特に人形や装飾品の分野では、ヨーロッパ独自の表現が生まれました。

     

デュ・パキエの行動は、当時のマイセン窯にとっては大きな打撃でしたが、長期的に見れば、ヨーロッパ全体の磁器文化の発展に貢献したと言えるでしょう。彼がいなければ、マイセンの秘密はもっと長く守られ、ヨーロッパの磁器産業の発展は遅れていたかもしれません。

 

彼の名前はマイセンの歴史においては「裏切り者」として記録されていますが、ウィーン窯の創始者として、そしてヨーロッパ磁器産業の発展に貢献した人物として、陶磁器史に重要な足跡を残しています。

 

クラウディウス・インノセンティウス・デュ・パキエの現代陶芸家への影響と遺産

デュ・パキエの遺産は、300年以上経った現代の陶芸界にも影響を与え続けています。彼の行動と業績は、現代の陶芸家たちにとって様々な示唆を与えるものです。

 

まず、デュ・パキエの最大の教訓は「技術の共有と革新」の重要性でしょう。彼がマイセンの秘密を広めたことは、短期的にはマイセンにとって損失でしたが、長期的にはヨーロッパ全体の陶磁器技術の向上と多様化をもたらしました。現代の陶芸界でも、伝統技術の保護と共有のバランスは常に議論されるテーマです。

 

また、デュ・パキエの行動は「文化的融合」の先駆けとも言えます。東洋の磁器技術をヨーロッパで再現し、それをヨーロッパ独自の美意識で発展させるという過程は、異文化の技術や美学を取り入れながら独自の表現を追求する現代の陶芸家たちの姿勢にも通じるものがあります。

 

現代の陶芸家たちの中には、デュ・パキエのような「境界を越える」精神に影響を受け、伝統的な技法と現代的な表現の融合を試みる作家も少なくありません。特に、ウィーン窯の伝統を受け継ぐオーストリアの陶芸家たちの中には、デュ・パキエを先駆者として敬意を表する人々もいます。

 

また、デュ・パキエの時代に始まった東西の陶磁器文化の交流は、現代ではさらに広がり、グローバルな陶芸コミュニティを形成しています。日本の陶芸家がヨーロッパで学び、ヨーロッパの陶芸家が日本や中国で研鑽を積むといった文化交流は、デュ・パキエの時代に始まった東西の技術交流の延長線上にあると言えるでしょう。

 

興味深いことに、デュ・パキエのような「産業スパイ」的行為は、現代では知的財産権の侵害として非難されるものですが、歴史的には技術革新と文化交流の触媒となったという側面もあります。この矛盾は、現代の陶芸家たちに「伝統の継承と革新」について考えるきっかけを与えています。

 

デュ・パキエの名前は一般にはあまり知られていませんが、陶磁器の歴史に関心を持つ