クラウディウス・インノセンティウス・デュ・パキエは、オランダ出身の人物で、オーストリア帝国の軍事官として活躍していました。彼の生涯については詳細な記録が少ないものの、18世紀初頭のヨーロッパ陶磁器史において極めて重要な役割を果たしました。
当時のヨーロッパでは、東洋からもたらされた磁器が「白い黄金」と呼ばれるほど珍重されていました。この磁器への憧れは13世紀末にマルコ・ポーロの『東方見聞録』によってヨーロッパに伝えられ、17世紀にオランダ東インド会社が大量の中国磁器を輸入したことで、さらに高まりました。特に白く半透明な肌を持つ磁器は、ヨーロッパの王侯貴族たちを魅了し、「磁器に毒入りの食物が入れられると粉々に壊れる」といった迷信まで生まれるほどでした。
デュ・パキエもこの東洋磁器の魅力に取り憑かれた一人でした。彼がマイセンでの磁器製造成功のニュースを聞いたとき、その技術を手に入れようと決意したのは、単なる商業的野心だけでなく、東洋の神秘に対する深い憧れがあったからでしょう。
彼の軍事的背景は、後の組織的なスパイ活動において大いに役立ちました。軍事官としての戦略的思考と行動力が、マイセンの厳重な秘密管理を突破する原動力となったのです。
デュ・パキエによるマイセン窯からの技術スパイ活動は、ヨーロッパ初の本格的な産業スパイと言えるでしょう。彼の活動は非常に組織的かつ戦略的でした。
まず最初に、デュ・パキエはマイセン工房からエナメル塗師のクリストフ・コンラート・フンガーを秘かに引き抜くことに成功しました。しかし、マイセン窯では磁器製造の秘密を守るため、工程を分離して管理していたため、フンガー一人では磁器製造の全体像を把握しておらず、ウィーンでの磁器製造は成功しませんでした。
諦めなかったデュ・パキエは、次にベトガーの助手として焼成や粘土の下ごしらえを担当していたサムエル・ステルツェルを引き抜きました。さらに、ベトガーの義理の兄弟を通じて、マイセンの同僚が作った磁器焼成窯の紙模型まで入手することに成功したのです。
このように、デュ・パキエは単に一人の技術者を引き抜くのではなく、磁器製造に必要な複数の要素を計画的に集めていきました。彼の執拗なスパイ活動は、当時としては前例のない規模と精密さを持っていました。
興味深いことに、マイセン窯では磁器製造の秘密を守るため、素地の配合を管理する者と釉薬を管理する者を分け、全工程を知っているのはベトガー一人だけという厳重な管理体制を敷いていました。それにもかかわらず、デュ・パキエはこの防衛網を突破し、必要な情報と人材を集めることができたのです。
一説によると、この一連の情報漏洩の裏側には、ベトガー本人が関与していたのではないかという指摘もあります。長年投獄状態で研究を強いられていたベトガーが、何らかの形で自らの技術の流出を黙認、あるいは間接的に助けていた可能性も考えられるでしょう。
デュ・パキエは、マイセンから盗み出した技術と人材を基に、1718年にウィーンに磁器工房を設立しました。これがのちのウィーン窯(後のアウガルテン窯)の始まりです。ベトガーの死の翌月には、ウィーンの地で初めて磁器が焼成されたという記録があります。
ウィーン窯の設立は、ヨーロッパ磁器史における重要な転換点となりました。マイセン以外の地でも高品質の磁器が製造可能であることを証明し、その後のヨーロッパ各地での磁器製造の広がりに大きな影響を与えたのです。
しかし、デュ・パキエの事業は当初、予想したほどの利益を上げることができませんでした。そのため、フンガーやステルツェルといった技術者たちに約束していた報酬を支払うことができなかったのです。失望したフンガーはウィーンを去り、ヴェネツィアに移住して、そこで最初の磁器製造工房の立ち上げに関わることになりました。
一方、ステルツェルはマイセンに戻ることを選びました。興味深いことに、彼は贖罪の証として若い画家ヨハン・グレゴール・ヘロルトをマイセンに連れ帰りました。このヘロルトは後にマイセン窯の絵付けを高度なレベルに引き上げる重要な人物となり、皮肉にもステルツェルの「裏切り」がマイセン窯の発展に貢献することになったのです。
1725年に製造されたヴァーズ(花瓶)には、自らが作った磁器を見つめるデュ・パキエの姿が描かれています。これは彼の磁器への情熱と誇りを示す貴重な証拠と言えるでしょう。
デュ・パキエがウィーンで製造した磁器は、マイセン磁器の技術を基礎としながらも、独自の特徴を持っていました。ウィーン窯の初期の作品は、中国や日本の東洋磁器の影響を強く受けていましたが、次第にウィーン独自のスタイルを確立していきました。
ウィーン窯の磁器の特徴として、以下の点が挙げられます。
デュ・パキエ自身は磁器の製造技術よりも、事業の経営と技術者の確保に力を入れていたようです。彼は自らの名を冠した特別な作品を製作させ、その中には自画像を描かせたものもありました。1725年に製造されたヴァーズに描かれた彼の姿は、磁器製造者としての誇りと自負を表現しています。
ウィーン窯の初期の作品は現存するものが少なく、美術館やプライベートコレクションに収められている貴重なものとなっています。これらの作品は、マイセン磁器との類似点を持ちながらも、微妙な違いがあり、専門家の間で研究対象となっています。
デュ・パキエの最大の功績は、マイセンが独占していた磁器製造の秘密をヨーロッパ各地に広めるきっかけを作ったことでしょう。彼の活動がなければ、ヨーロッパの磁器産業の発展はもっと遅れていたかもしれません。
デュ・パキエの影響は以下のような形で現れています。
デュ・パキエの行動は、当時のマイセン窯にとっては大きな打撃でしたが、長期的に見れば、ヨーロッパ全体の磁器文化の発展に貢献したと言えるでしょう。彼がいなければ、マイセンの秘密はもっと長く守られ、ヨーロッパの磁器産業の発展は遅れていたかもしれません。
彼の名前はマイセンの歴史においては「裏切り者」として記録されていますが、ウィーン窯の創始者として、そしてヨーロッパ磁器産業の発展に貢献した人物として、陶磁器史に重要な足跡を残しています。
デュ・パキエの遺産は、300年以上経った現代の陶芸界にも影響を与え続けています。彼の行動と業績は、現代の陶芸家たちにとって様々な示唆を与えるものです。
まず、デュ・パキエの最大の教訓は「技術の共有と革新」の重要性でしょう。彼がマイセンの秘密を広めたことは、短期的にはマイセンにとって損失でしたが、長期的にはヨーロッパ全体の陶磁器技術の向上と多様化をもたらしました。現代の陶芸界でも、伝統技術の保護と共有のバランスは常に議論されるテーマです。
また、デュ・パキエの行動は「文化的融合」の先駆けとも言えます。東洋の磁器技術をヨーロッパで再現し、それをヨーロッパ独自の美意識で発展させるという過程は、異文化の技術や美学を取り入れながら独自の表現を追求する現代の陶芸家たちの姿勢にも通じるものがあります。
現代の陶芸家たちの中には、デュ・パキエのような「境界を越える」精神に影響を受け、伝統的な技法と現代的な表現の融合を試みる作家も少なくありません。特に、ウィーン窯の伝統を受け継ぐオーストリアの陶芸家たちの中には、デュ・パキエを先駆者として敬意を表する人々もいます。
また、デュ・パキエの時代に始まった東西の陶磁器文化の交流は、現代ではさらに広がり、グローバルな陶芸コミュニティを形成しています。日本の陶芸家がヨーロッパで学び、ヨーロッパの陶芸家が日本や中国で研鑽を積むといった文化交流は、デュ・パキエの時代に始まった東西の技術交流の延長線上にあると言えるでしょう。
興味深いことに、デュ・パキエのような「産業スパイ」的行為は、現代では知的財産権の侵害として非難されるものですが、歴史的には技術革新と文化交流の触媒となったという側面もあります。この矛盾は、現代の陶芸家たちに「伝統の継承と革新」について考えるきっかけを与えています。
デュ・パキエの名前は一般にはあまり知られていませんが、陶磁器の歴史に関心を持つ