世界の質量を定義するキログラム原器は、白金とイリジウムの合金で作られた高さ39ミリメートル、直径39ミリメートルの円筒形の分銅です。極めて精密に製造され、パリの厳重な保管施設で二重のガラス蓋に守られていたにもかかわらず、人工物である限り質量を完全に保ち続けることは不可能でした。
表面汚染は、大気中の微粒子や有機物の付着によって進行します。1988年に実施された48年ぶりの洗浄作業では、キログラム原器の質量が洗浄前と比較して約60マイクログラム変化することが明らかになりました。さらに、熱膨張による体積変化も無視できない要因となり、極度に厳密な管理環境下でも避けられない現象だったのです。
各国に配布された複製原器との比較において生じた質量差は、単なる測定誤差では説明できない規模に達していました。国際キログラム原器こそが「1キログラムの定義そのもの」という定義の構造上、原器が変化しているのか複製体が変化しているのか、その判定自体が理論的に不可能だったのです。この矛盾は、基準となるべき物が不確実性を持つという致命的な弱点を露呈させていました。
医療用医薬品の調剤、半導体製造、極微量物質の分析など、現代の先端産業では1ピコグラム(1兆分の1グラム)単位での計測が求められる場面も増えていました。原器に基づく定義では、こうした超微量領域での計測精度を保証することができず、科学技術の発展そのものが既存の定義を超えてしまったのです。
2018年11月の第26回国際度量衡総会で、人工物から解放されたまったく新しい定義への移行が決議されました。プランク定数という基礎物理定数を用いた新定義が、2019年5月20日から世界中で発効したのです。
プランク定数は、量子力学において最も基本的な定数の一つで、約6.62607015×10⁻³⁴ジュール秒という値が定義されています。この定数は、自然界の基本的な性質に根ざしているため、地球のどこで、いつ測定しても絶対に変わることがない普遍的な物理定数です。原器のように汚染や劣化の心配がなく、永遠に正確であり続けるのが最大の利点です。
新定義ではプランク定数を起点として、複雑な量子力学の換算式を通じてキログラムの値が決定されます。シリコン球体の原子個数を精密に計測し、そこから得られた原子一個あたりの質量関係を利用することで、物質の種類や量を問わず、理論的にはどこでも1キログラムを正確に再現できるようになったのです。この方法は、国際キログラム原器のような特定の物体に依存せず、純粋に物理法則に基づいているため、人類の知識が進展しても定義が揺らぐことがありません。
プランク定数を基準とした新定義の実現には、特に日本の産業技術総合研究所(産総研)が開発した高精度計測技術が決定的な役割を果たしました。新定義を実行可能にするためには、プランク定数そのものをかつてない精度で決定する必要があったのです。
産総研のチームは、同位体濃縮シリコン(28Si)で作られた特殊な球体を開発しました。この球体は、原子が極めて規則正しく配列された結晶構造を持つため、体積さえ正確に測定できれば、原子個数を計算で求めることができます。球体の直径を0.6ナノメートルの精度で測定し、X線光電子分光法によって表面の酸化層や汚染層の厚さまで詳細に調べることで、シリコンコアの純粋な質量と体積を算出したのです。
さらに、シリコン球体の温度変化がわずかな体積変化をもたらすため、温度管理の精度も極めて重要でした。産総研は、複数のヒーターと温度計を用いて、球体温度を0.0006℃の精度で制御するシステムを構築しました。こうした緻密な技術の蓄積によって、従来の1億分の1というバラつき水準を達成し、有効数字9桁の高精度プランク定数を世界に提供したのです。
キログラム原器が廃止されたからといって、物理的な原器そのものが破棄されたわけではありません。日本国キログラム原器を含む各国の原器は、今後「非常に優秀な分銅」として引き続き利用されることになりました。
新定義への移行は段階的に進められています。当面の間、従来の計測機器や分銅は依然として有効に機能しており、産業現場でも実用上の問題は生じていません。1キログラムという量そのものは変わっていないため、既存の科学データや工業製品の仕様に影響は最小限です。
しかし今後の高精度計測や新技術開発では、プランク定数に基づいて直接キログラムを実現する新しい計測機器が導入されていくでしょう。各国が独立してプランク定数の定義値からキログラムを再現することが原理的に可能になったため、従来のような国際度量衡局への依存度は低下していきます。これは質量計測の民主化であり、各国が最高レベルの精度で独自に基準を維持できる時代への転換なのです。
プランク定数に基づく新定義は、単に基準物体を置き換えたのではなく、質量計測の本質的な自由度を拡大させました。従来の原器ベースの定義では、最小計測単位が1マイクログラム程度でしたが、新定義ではプランク定数との比較が可能であれば、理論上は原子一個分、つまりピコグラム以下の領域でも精密な計測が可能になったのです。
医薬品の製造過程において、有効成分が数ナノグラム単位で変わることで効果が激変する場合があります。また、半導体のナノスケール加工では、原子層一つ分の質量変化が性能に大きく影響します。こうした最先端分野では、新定義による計測能力の拡張が革新的な技術進歩をもたらすことになるでしょう。
さらに、宇宙探査や素粒子物理学の実験においても、微細な質量差を検出することが理論検証に不可欠です。プランク定数という宇宙普遍の物理定数に基づくことで、地球上での計測だけでなく、将来的には宇宙ステーションや月面でも同じ精度で質量を定義できるようになる可能性も秘めています。
国際度量衡総会の決議により、キログラムだけでなくアンペア(電流)、ケルビン(温度)、モル(物質量)といった他の基本単位も同時に物理定数ベースの定義に改定されました。これは、人類が計測という概念そのものをより客観的で普遍的な基盤へと進化させた歴史的転換点だったのです。
参考資料:キログラム定義改定に関する技術的詳細について、産業技術総合研究所の公開資料が詳細です。
産業技術総合研究所公式ウェブサイト
参考資料:国際単位系の再定義プロセスと各国の貢献についての解説。