光悦は57歳になるまで茶碗をほとんど作っておらず、陶芸は完全な「晩年の趣味」だった。
本阿弥光悦(1558〜1637年)は、桃山時代から江戸時代初期にかけて京都で活躍した総合芸術家だ。書・陶芸・漆芸・作庭・茶の湯・出版と、これほど多くの分野で傑出した作品を残した人物は日本の歴史を通じてもほとんど存在しない。「日本のレオナルド・ダ・ヴィンチ」という称号がつくのも、そうした理由からだ。
本阿弥家は代々、刀剣の鑑定・研磨・浄拭(ぬぐい)を家業とする名門一族だった。光悦の父が分家を立てたことで、光悦は家業の制約から解放され、芸術活動に専念できる環境を得た。幼少期から刀剣を取り巻く金工・漆工・染色・木工といったあらゆる工芸技術を間近に見てきたことが、後の多彩な創作の土台となっている。
光悦は日蓮法華宗に深く帰依した「法華町衆」の中心的人物でもあった。信仰的な仲間意識のもと、漆工の五十嵐、日本画の俵屋、蒔絵師、織屋、紙屋など、京を代表する職人たちと強固なネットワークを築いていた。この人的基盤こそが、光悦を単なる「作家」ではなく現代でいうアートディレクターとして機能させた原動力だ。
1615年、徳川家康から京都洛北の鷹峯(たかがみね)に約9万坪(東京ドーム約6個分)の土地を拝領したことが、光悦の創作人生の大きな転機となる。この地に一族・町衆・職人を集め、56もの屋敷が軒を連ねる芸術村「光悦村」を建設した。ここで光悦は晩年の約20年間を創作三昧に過ごし、陶芸作品の多くもこの時期に生まれた。
光悦の作陶は元和元年(1615年)に鷹峯の地を拝領してから始まったと言われている。つまり57歳以降の取り組みだ。プロの陶芸家と比べると言わば「趣味の陶芸」に近い立場だったが、だからこそ既存の様式に縛られない自由な美意識を茶碗に込めることができた。
美術手帖|本阿弥光悦とは何者だったのか?東博の特別展で覗くその「大宇宙」
光悦の陶芸作品の中でも頂点に位置するのが、白楽茶碗「不二山(ふじさん)」だ。高さ8.9cm、口径11.6cmというコンパクトな作品だが、日本の和物茶碗として国宝に指定されているのはこの「不二山」と志野茶碗「銘卯花墻」のわずか2点のみ。その希少性と芸術的価値は格別だ。
不二山の最大の特徴は「片身変わり」と呼ばれる釉景色にある。全体に白釉を厚く掛けて焼いたところ、偶然にも下半分の内外が炭化して黒褐色(暗灰色)に変色した。その姿が白雪を戴いた富士山にそっくりだとして「不二山」の銘が与えられた。「不二山」という名は「二つとない山」すなわち富士山を意味し、同時に「二度とこれほどの作は作れない」という意を込めているという説もある。
制作の経緯も興味深い。光悦が娘を大阪へ嫁がせる際、嫁入り支度の代わりに精魂を込めて作った作品とされている。当時、振袖に包んで持参したことから「振袖茶碗」という別名もある。その切れ端まで現存しているほど大切に扱われてきた。
もう一つ見逃せないのが、箱の書き付け(箱書)だ。「不二山 大虚菴」と記された箱書は光悦自身の自筆であり、制作者が自ら箱書をした「共箱(ともばこ)」は日本の陶芸史上初の試みとされている。これは後の茶碗文化の礎を作った重大な慣習のはじまりでもある。
内側の一部には銀化(鉛釉が変化を起こした)も見られ、窯の偶然が生み出した景色は人間の手でコントロールできる領域を超えている。現在は長野県諏訪市のサンリツ服部美術館に所蔵されており、常設展示はせず企画展にて公開されている。
🗺️ 鑑賞を計画する場合は、同館の展示スケジュールを事前に確認することが必須だ。
Wikipedia|楽焼白片身変茶碗(国宝・不二山)詳細解説
光悦の茶碗の中でも特に名高い7点を「光悦七種(こうえつしちしゅ)」と呼ぶ。これが何かを知っているだけで、陶器好きとしての鑑賞の深みが格段に変わる。
光悦七種とは次の7碗だ。黒楽茶碗「雨雲」(三井記念美術館)、黒楽茶碗「時雨」(名古屋市博物館)、赤楽茶碗「雪峯」(畠山記念館)、赤楽茶碗「加賀」(相国寺承天閣美術館)、赤楽筒茶碗「雪片」(個人蔵)、赤楽茶碗「毘沙門堂」(個人蔵)、黒楽茶碗「七里」(五島美術館)だ。それぞれ異なる美術館・個人に分散所蔵されており、一度に全作品を見ることは事実上不可能に近い。
赤楽茶碗「雪峯(せっぽう)」は特に劇的な来歴を持つ。焼成中に割れてしまった失敗作を、光悦は捨てずに金継ぎで直し、割れた部分を「雪解けの渓流」に見立て、白い釉薬の部分を積もる雪と考えて「雪峯」と命名した。失敗から逆に傑作を生み出すという発想の転換は、樂家の茶碗には見られない光悦固有の遊び心だ。この「雪峯」は金継ぎを修理ではなく芸術の域に高めた記念碑的な作品と評価されており、光悦は「金継ぎの父」とも呼ばれている。
黒楽茶碗「雨雲」は三井記念美術館に所蔵される光悦七種のひとつで、黒飴色の釉薬の景色が雨雲のように広がる姿から命名された。軽妙な作でありながら、胴に塗られた釉の流れが豊かな表情を生んでいる。
光悦の茶碗は現存するものが数十点と限られており、真作の茶碗1点だけでも美術館クラスの価値がある。プロの陶芸家が生涯をかけて作り続ける作品数と比べると、光悦の現存作品数がいかに少ないかがわかる。それが希少性を高め、鑑賞機会の貴重さにもつながっている。
| 銘 | 種類 | 所蔵先 |
|---|---|---|
| 不二山(国宝) | 白楽 | サンリツ服部美術館(長野) |
| 雨雲 | 黒楽 | 三井記念美術館(東京) |
| 時雨 | 黒楽 | 名古屋市博物館(愛知) |
| 雪峯 | 赤楽 | 畠山記念館(東京) |
| 加賀 | 赤楽 | 承天閣美術館(京都) |
| 七里 | 黒楽 | 五島美術館(東京) |
| 雪片 | 赤楽筒 | 個人蔵 |
つまり、光悦の茶碗はそれぞれが別の場所に眠っているということですね。
荏原 畠山美術館|赤楽茶碗「銘 雪峯」本阿弥光悦作・作品解説
陶器だけに目が向きがちだが、光悦の代表作として必ず語られるのが国宝「舟橋蒔絵硯箱(ふなばしまきえすずりばこ)」だ。東京国立博物館所蔵のこの作品は、漆芸の世界に革命をもたらした傑作であり、光悦の知的センスが最もわかりやすく現れている一品だ。
まず目を引くのはアーチ状にこんもりと盛り上がった蓋の形状だ。当時の硯箱はフラットなものが主流だったため、この形は時代から大きく逸脱していた。蓋を橋に見立て、その下に流れる川と舟を表現するために、意図的にアーチ形にしたと解釈されている。
蓋の上には短冊形の鉛板が渡されている。これが「橋」の表現で、叩き加工の跡が残るほど職人が手を加えた素材だ。さらに蓋の表面には平安時代の歌人・源等の和歌「東路の佐野の舟橋かけてのみ 思ひわたるを知る人ぞなき」の文字が銀の切り文字で散らされている。歌の意味は、舟を並べた上に板を渡しただけの危うい橋をかけ渡るように、伝わらない恋心を抱き続けているという切ない情景だ。
書と絵と造形が一体化した、これだけ多層的なコンセプトを持つ硯箱は前例がなかった。蒔絵に文字を大胆に組み込むという発想は、書道にも卓越していた光悦だからこそ思いついた仕掛けだ。光悦の意匠に職人が応えた協働の産物であり、どこまでが光悦自身の制作かは諸説あるが、コンセプトは間違いなく光悦のものだ。
これは使えそうです。文字・形・素材の三つが協奏するという光悦のデザイン哲学は、現代のプロダクトデザインに通じる感覚だ。陶器とは異なるアプローチで光悦を知ることで、茶碗の見え方も変わってくる。
全国美術館ネットワーク|特別展「本阿弥光悦の大宇宙」レポート
光悦の代表作を語るうえで、俵屋宗達との共作は外せない。長さ13mにも及ぶ重要文化財「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」は、その最高傑作のひとつだ。京都国立博物館が所蔵するこの巻物には、宗達が金銀泥で描いた鶴の群れの下絵の上に、光悦が三十六歌仙の和歌を散らし書きした書が重なっている。
光悦と宗達の出会いには興味深いエピソードがある。当時44歳だった光悦は、まだ世に知られていなかった宗達の才能をいち早く見抜き、厳島神社の寺宝「平家納経」の修繕プロジェクトに宗達を迎え入れた。宗達はこの仕事で表舞台への足がかりをつかんだ。アートディレクターとしての光悦の眼力が発揮された場面だ。
「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」の見どころは、鶴の優雅な動きと光悦の書の文字が視覚的に調和している点にある。文字の大小・行間の広狭・書き出しの高低・墨の濃淡、この4つの変化が宗達の下絵と絶妙に響き合い、全体として一つの大きな「流れ」を生み出している。書と絵が対等にぶつかり合いながらもひとつに溶け合う。これは後世の琳派の根幹に流れる美意識だ。
光悦は書においても「寛永の三筆」の一人に数えられた。近衛信尹・松花堂昭乗とともに江戸初期の書壇を代表する人物であり、その書流は「光悦流」として後世に受け継がれている。書の技量があったからこそ、蒔絵に文字を組み込む硯箱の発想も生まれたし、宗達との共作でも文字が絵を圧倒しない絶妙なバランスを保てた。
共作のもう一点、「鹿下絵和歌巻」はアメリカ・シアトル美術館に後半部分が所蔵されており、前半の断簡は山種美術館・五島美術館・サントリー美術館・MOA美術館など日本国内の複数の美術館に分散している。光悦の作品が国境を越えて評価され続けている証左でもある。
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光悦の茶碗を深く楽しむために欠かせないのが「見立て(みたて)」という概念だ。これは光悦が作品の随所に仕込んだ、最も個性的な美の哲学といってよい。
「見立て」とは、ある物体を別の何かに見立てて名前を付け、鑑賞の文脈を一変させる技法だ。白楽茶碗「不二山」では、偶然の窯変で生まれた黒褐色の下半分を雪をかぶった富士山に見立てた。赤楽茶碗「雪峯」では、焼成中に割れた亀裂を雪解けの渓流に見立て、金継ぎを美に変えた。いずれも偶然の産物を「失敗」ではなく「景色」として読み替えることで、作品に新たな命を吹き込んでいる。
この「見立て」は陶芸の世界に限らず、光悦のすべての作品に通底している。舟橋蒔絵硯箱では蓋を橋に、鉛板の帯を橋桁に見立てた。本法寺の庭園「巴の庭」では、2枚の半月形の石を「日」の字に、十角形の蓮池を「蓮」に見立て、石と池で「日蓮(にちれん)」という言葉を構成した。見る者が気づいた瞬間に笑みがこぼれるような、知的な遊びを随所に仕掛けているのが光悦流の美学だ。
この「見立て」の発想は、現代の陶器や器を楽しむうえでも大いに参考になる。日々の生活で使う器に何かを「見立てる」視点を持つと、普段の茶碗や湯呑みの見え方が変わってくる。たとえば偶然できた景色のある器を選ぶときに「この模様はどこかに似ていないか」と問いかけてみる。それだけで器との対話が生まれる。
光悦はまた茶の湯の師匠に古田織部を持ち、茶道を日常の軸に据えていた。光悦寺には7つもの茶室が今も残り、光悦が晩年を過ごした「大虚庵(だいきょあん)」もその一つだ。茶碗を作るだけでなく、その茶碗でお茶を点て、空間全体を芸術として完成させる。そういう統合的な美意識を持った人物が生み出した作品だからこそ、光悦の茶碗には触れるだけでなく「使われる場」まで込められた文脈がある。
陶器に興味を持つ方が光悦の茶碗の実物を鑑賞したいとき、まず訪れやすい場所として東京・三井記念美術館(黒楽茶碗「雨雲」所蔵)や五島美術館(黒楽茶碗「七里」所蔵)が挙げられる。企画展や特別展の開催時期に合わせて訪問スケジュールを立てると、実物の迫力を余すことなく体感できる。