テトラクロロエチレンは、別名パークロロエチレン(パークレン)とも呼ばれ、ドライクリーニング溶剤として長年にわたり世界中で使用されてきました。この物質の最大の特徴は、他の溶剤と比較して圧倒的に高い油脂溶解力です。比重が1.627と重く、ほとんどの有機化合物を溶解する能力を持つため、衣類についた頑固な油汚れを効率的に落とすことができます。
参考)ドライクリーニングの溶剤とは?種類によって衣類の仕上がりが違…
沸点が121℃と適度であることから、洗浄後の乾燥時間も短縮できるという利点があります。不燃性の性質も持ち合わせているため、引火の危険がなく、クリーニング作業における安全性の面でも評価されていました。クリーニング業界では「もみ」「叩き」といった機械的な動きにも耐えられる強度があり、戦後の日本では「魔法の溶剤」とも呼ばれ、清潔で快適な衣類の提供に大きく貢献してきた歴史があります。
参考)ヒロヤクリーニング
欧米では現在でもドライクリーニング溶剤の主力として使用されているのに対し、日本では石油系溶剤が主流となっています。これは後述する健康や環境への影響を考慮した結果、日本国内での使用が制限されてきたためです。
参考)ポニークリーニング|洗いにこだわり首都圏・中京地区に20事業…
テトラクロロエチレンには、人体に対する重大な健康リスクが指摘されています。短期的な曝露では、めまい、頭痛、吐き気、脱力感、意識喪失などの中枢神経系への影響が報告されており、高濃度の場合には重篤な症状を引き起こす可能性があります。液体を飲み込んだ場合には、誤嚥により化学性肺炎を起こす危険性もあります。
参考)https://anzeninfo.mhlw.go.jp/anzen/gmsds/127-18-4.html
より深刻なのは、長期的な曝露による発がん性のリスクです。国際がん研究機関(IARC)では、テトラクロロエチレンを「ヒトに対して発がん性がある可能性がある」物質として分類しています。アメリカ環境保護庁(EPA)も2012年の健康評価において、この物質を初めて「人間に対し発がん性を持ちうる」とみなしました。特に汚染された飲料水の摂取による発がん性が懸念されており、厳格な審査結果に基づいた評価となっています。
参考)https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC3984230/
クリーニング作業者のように職業的に長時間曝露される環境では、より高いリスクが存在します。実際にドライクリーニング作業者のテトラクロロエチレン中毒症の事例も報告されており、労働者の健康管理のための特別な措置が必要とされています。皮膚への接触では乾燥や発赤を引き起こし、眼に入った場合には痛みや発赤が生じるため、取り扱いには有機ガス用防毒マスクなどの適切な保護具の着用が必須です。
参考)https://jsite.mhlw.go.jp/okinawa-roudoukyoku/library/okinawa-roudoukyoku/ken-an/H27/271215_cleaning_tetrachloroethylene.pdf
厚生労働省の職場のあんぜんサイトには、テトラクロロエチレンの詳細な安全性情報と取扱い上の注意事項が掲載されています
テトラクロロエチレンは環境中で非常に分解されにくい物質であり、深刻な土壌・地下水汚染を引き起こす原因となっています。大気中では化学反応によって分解されますが、半分の濃度になるまでに96日もかかると計算されており、長期間環境に残留する性質があります。特にクリーニング店が多い都市部では、1980年代から90年代にかけて地下水汚染が多数報告されました。
参考)テトラクロロエチレン:工業界の影の主役と環境への影響 - 【…
ドライクリーニング事業所からの漏洩は、土壌に浸透すると地下水汚染につながります。実際の調査事例では、地表から3メートルまでの土壌汚染が確認され、テトラクロロエチレンの濃度が基準値の約100倍に達し、地下水も汚染されていたケースがあります。さらに問題なのは、テトラクロロエチレンが土壌中の微生物によって分解される際に、トリクロロエチレン、ジクロロエチレン、クロロエチレンといった同様に有害な分解生成物を生み出すことです。
参考)https://www.georhizome.co.jp/soil_contamination/opportunity/laundry/
クリーニング店跡地の土壌汚染調査では、テトラクロロエチレンとその分解生成物である5物質(テトラクロロエチレン、クロロエチレン、トリクロロエチレン、1,2-ジクロロエチレン、1,1-ジクロロエチレン)が主な調査対象となります。溶出量・地下水基準では、テトラクロロエチレンは0.01mg/Lという極めて厳しい値が設定されています。
浄化方法としては、液体バイオ製剤を使用した微生物による分解や、活性炭吸着、揮発性を利用した原位置浄化工法などが採用されています。ただし、浄化には長期間を要し、対策費用も高額になるケースが多く、クリーニング事業者にとって大きな経済負担となっています。
参考)パークレンの使用履歴のある事業者のみなさま|株式会社セロリ
クリーニング店と土壌汚染の関係について、具体的な調査事例と対策方法が詳しく解説されています
テトラクロロエチレンは、その有害性から複数の法律によって厳格に規制されています。2003年に施行された土壌汚染対策法では、第一種特定有害物質に指定され、化学物質審査規制法(化審法)でも第2種特定化学物質として管理対象となっています。
参考)第28回 トリクロロエチレン、テトラクロロエチレン - 月刊…
クリーニング事業所でテトラクロロエチレンを使用するドライ機は、水質汚濁防止法や下水道法において「特定有害物質使用特定施設」に該当します。このため、事業者は施設設置届の提出が義務付けられており、廃止する際にも廃止届を提出しなければなりません。施設の床面や周囲には、有害物質の地下浸透を防止するための構造基準を満たすことが求められます。
参考)テトラクロロエチレンまたはふっ素系溶剤を使用する ドライクリ…
厚生労働省が定める指針では、テトラクロロエチレンを使用するクリーニング営業者に対して、以下のような具体的な遵守事項が定められています:
参考)https://www.meti.go.jp/policy/chemical_management/kasinhou/files/about/laws/laws_h300330404_1.pdf
労働安全衛生面では、管理濃度が50ppmと設定されており、作業環境における曝露防止のため、局所排気装置の設置や有機ガス用防毒マスクの着用が求められています。溶剤の製造業者は製造予定量を行政に届け出るとともに、販売時には環境汚染防止措置に関する表示が義務づけられています。
参考)https://www.sagas.johas.go.jp/relays/download/1/7/209/75/?file=%2Ffiles%2Flibs%2F75%2F%2F201806081029449203.pdf
使用済みの蒸留残さ物、カートリッジフィルター、活性炭などテトラクロロエチレンを含む汚染物については、廃棄物処理法を遵守した適正な処理が必要です。違反した場合には、罰則の対象となる可能性があります。
テトラクロロエチレンの健康・環境リスクが明らかになるにつれ、クリーニング業界では代替溶剤への転換が進んでいます。日本国内で最も普及しているのが石油系溶剤です。石油系溶剤は油脂溶解力こそテトラクロロエチレンより小さいものの、比重が0.77〜0.82と軽く、デリケートな衣類の洗浄に適しているという特徴があります。
各溶剤の比較を表にまとめると以下のようになります。
| 項目 | テトラクロロエチレン | 石油系溶剤 |
|---|---|---|
| 比重 | 1.63 | 0.77〜0.82 |
| 溶解力 | 90 | 27〜45 |
| 引火性 | なし | あり |
| 沸点 | 121℃ | 150〜210℃ |
| 環境規制 | 厳格 | 相対的に緩やか |
石油系溶剤には引火性があるため、消防法では「第四類の引火性液体の第2石油類」に分類され、灯油や軽油と同じカテゴリーで管理されます。取り扱いには防火対策が必要ですが、人体への毒性や環境汚染のリスクはテトラクロロエチレンに比べて大幅に低減されています。
参考)ポニークリーニング|洗いにこだわり首都圏・中京地区に20事業…
興味深いことに、テトラクロロエチレンの製造には様々な鉱物資源が関与しています。原料となる塩素は岩塩や海水から得られる塩化ナトリウムを電気分解して製造されます。また、浄化プロセスで使用される活性炭は、石炭や木炭、ヤシ殻といった炭素質の原料を高温で賦活化したものです。土壌汚染の浄化に用いられるゼロ価鉄ナノ粒子は、鉄鉱石から精錬された鉄を化学的に還元して製造されます。さらに、処理装置の構造材料には、耐食性の高いステンレス鋼が使用されており、これにはクロム鉱石やニッケル鉱石から得られる金属が含まれています。
参考)https://downloads.hindawi.com/archive/2012/270830.pdf
ドライクリーニング機械の技術進化も注目に値します。第1世代のトランスファータイプでは、洗浄衣類の重量に対して約10%ものテトラクロロエチレンが消費されていましたが、世代を重ねるごとに溶剤回収技術が向上し、環境への排出量は大幅に削減されています。第5世代機では、密閉型の構造と高効率な溶剤回収システムにより、溶剤の消費量と大気への放出を最小限に抑えることが可能になっています。
参考)ポニークリーニング|洗いにこだわり首都圏・中京地区に20事業…
パークレンを使用するドライ機を廃止して石油系溶剤に変更した場合、「土地の使用方法が変わらない」として土壌汚染調査の猶予を受けることができる制度もあります。これにより、事業を継続しながら段階的に環境対応を進めることが可能となっています。
クリーニング業界における溶剤の選択は、洗浄性能、安全性、環境負荷、コストのバランスを考慮した総合的な判断が求められます。テトラクロロエチレンの優れた洗浄力は魅力的ですが、長期的な健康影響や環境汚染のリスク、そして厳格化する法規制を考慮すると、より安全な代替溶剤への移行が合理的な選択となっています。