李参平 韓国の反応で探る有田焼の陶祖が残した功績と技術史

有田焼の創始者として知られる朝鮮人陶工・李参平。韓国での反応は複雑で、日本に連行されながらも陶工として厚遇された歴史をどう捉えているのでしょうか?

李参平と韓国の反応

李参平と有田焼の歴史
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陶祖としての評価

朝鮮出身の陶工・李参平は有田焼の創始者として日本で陶祖と称えられ、神社に祀られるほどの待遇を受けました

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韓国での反応

韓国のネット上では、陶工たちが朝鮮に帰国を拒んだ歴史的事実に対し、当時の李氏朝鮮の待遇問題を指摘する声が多数

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技術の発展

李参平がもたらした磁器製造技術は有田で大きく発展し、日本の陶磁器文化の基礎を築きました

李参平の朝鮮から日本への渡来

 

文禄・慶長の役において、豊臣秀吉の朝鮮出兵に従軍した鍋島直茂の家臣によって、多くの朝鮮人陶工が日本に連れてこられました。李参平(金ヶ江三兵衛)は朝鮮の忠清道金江出身で、この時期に日本へ渡った陶工の一人とされています。
参考)有田焼の始祖の李参平は、文禄・慶長の役で朝鮮から連行された人…

1616年(元和2年)、李参平は有田の泉山で良質な磁石鉱(陶石)を発見し、天狗谷窯で日本初の白磁器の製造に成功したと伝えられています。この発見が有田焼創業の起点とされ、2016年には有田焼創業400周年が盛大に祝われました。
韓国のネット掲示板では、李参平が「拉致された」という表現が使われる一方で、実際には戦後の送還事業で朝鮮への帰国を拒んだ陶工が多数いたことが議論されています。当時の朝鮮では陶工は賤民として扱われていたのに対し、日本では技術者として厚遇されたためです。
参考)韓国人「日本の佐賀県に行って有田焼を見てきたので紹介する」 …

李参平への韓国での評価と反応

韓国のネット上では、李参平や他の朝鮮人陶工たちが日本で受けた待遇について、複雑な反応が見られます。多くの韓国人ユーザーは、「陶工たちが朝鮮に帰りたがらなかった」という歴史的事実を認め、当時の李氏朝鮮が技術者を軽視していたことを自己批判的に語っています。
参考)韓国人「豊臣秀吉に拉致された朝鮮人陶工の末路…朝鮮に帰りたく…

韓国の反応翻訳サイト「カイカイ反応通信」では、「壬辰倭乱で拉致された朝鮮人陶工の末路」というスレッドで、日本での待遇の良さから帰国を拒否した陶工たちの記録が紹介されています。「日本は物資が豊かで国民が安らかで生利が豊かで労働者も数年で数百金を集める。このため、帰る意向はなかった」という当時の記録が引用され、韓国人ユーザーからは「ヘル朝鮮」という自虐的なコメントも多数見られました。
また、韓国のコラムでは「もし陶工が朝鮮に残っていたら」という仮定のもと、「産業を『末業』と見なして権力闘争に没頭し、朝鮮の『李参平』を育てられなかった韓国側のせい」と指摘する声もあります。李参平を陶祖として称える日本に対し、むしろ感謝すべきだという論調さえ見られます。
参考)【コラム】もし陶工が朝鮮に残っていたら-Chosun onl…

李参平がもたらした有田焼の技術革新

李参平がもたらした最大の功績は、有田における磁器製造の基盤を確立したことです。彼は泉山で発見した良質な陶石を用いて、天狗谷窯(白川)で日本初の白磁器を焼成することに成功しました。
参考)李参平|有田焼の創始者で磁器文化を築いた陶工 href="https://hitopedia.net/%E6%9D%8E%E5%8F%82%E5%B9%B3/" target="_blank">https://hitopedia.net/%E6%9D%8E%E5%8F%82%E5%B9%B3/amp;#8211…

この技術は次第に有田の他の窯元にも広がり、有田焼全体の品質向上に貢献しました。また、李参平の影響を受けた技術は、後に九谷焼や瀬戸焼など、他の日本各地の陶磁器製造にも波及していきました。鍋島藩は李参平に「金ヶ江三兵衛」という日本名を与え、出身地の金江にちなんだ名前で士分待遇としました。
李参平は1655年(明暦元年)に約70代後半で亡くなり、有田町内の龍泉寺に戒名が刻まれ、天狗谷古窯の近くに墓碑も建立されました。当時の日本では極めて稀な手厚い庇護を受けていたことがわかります。
参考)李参平の歴史

李参平と有田焼の国際的評価

李参平が創始した有田焼は、17世紀にオランダ東インド会社(VOC)を通じてヨーロッパに輸出され、世界的な評価を得るようになりました。当時、中国の景徳鎮が明から清への混乱期にあり、白磁の供給が途絶えたことで、有田焼が代替品として注目されたのです。
参考)李参平 - Wikipedia

韓国のネット上では、「日本は朝鮮の陶工をスカウトして白磁を作らせ、中国製白磁の代わりに西洋に売りさばき金を稼いだ」という指摘があり、「その金を基盤に明治維新の土台を築き上げた」という見解も見られます。ただし、これは誇張された表現で、実際には生糸産業などが明治維新の主要な経済基盤でした。
有田焼は現在も高級陶磁器として国内外で高い評価を受けており、李参平の功績は有田町で「陶祖祭」として毎年5月4日に祭祀が行われています。陶山神社では応神天皇、鍋島直茂とともに李参平が祭神として祀られており、2017年には「陶祖李参平碑」も建立されました。​

李参平の歴史から見る日韓の技術者観の違い

李参平をめぐる韓国の反応から浮かび上がるのは、日本と朝鮮(韓国)における技術者・職人の社会的地位の違いです。李氏朝鮮では儒教思想に基づく「士農工商」の身分制度があり、工匠は社会の下層に位置づけられていました。
参考)日本に拉致された朝鮮人陶工の歴史、両国の為政者たちの交錯した…

一方、日本では職人が技術者として尊重され、優れた技能を持つ者には相応の待遇が与えられました。韓国のネットユーザーからは「日本は技術者を職人待遇し、朝鮮は一般市民扱いした。結局、このような待遇により、日本の陶磁器文化は花を咲かせた」というコメントが多数見られます。
現代の韓国でも、「およそ600年間、人文学一つに没頭しておきながら、ここまで成果のない民族は、おそらく我々が唯一ではないだろうか」という自省的な意見が見られ、技術軽視の文化が現代まで続いているという指摘もあります。李参平の歴史は、技術者を大切にすることの重要性を日韓両国に示す教訓となっています。​
朝鮮日報のコラム「もし陶工が朝鮮に残っていたら」では、李参平を陶祖として称える日本の姿勢を評価し、技術者を育てられなかった朝鮮王朝の反省点として論じています。