猿投窯特徴と歴史を知る須恵器灰釉

愛知県で栄えた猿投窯は日本最大級の古窯跡群として知られています。須恵器から灰釉陶器、山茶碗まで約900年にわたる生産の歴史と、その独特な技術的特徴を詳しく解説。あなたは猿投窯の魅力をどこまで知っていますか?

猿投窯の特徴

猿投窯の3つの大きな特徴
🏺
日本最大級の古窯跡群

約20km四方に1000基を超える窯跡が分布し、900年もの長期間稼働した

日本初の施釉陶器生産

灰釉陶器と緑釉陶器を人工的に施釉する技術を確立した先進的な窯

🎯
高級品専門の官窯的性格

寺社・官衙・豪族など支配層向けの祭器や仏具を中心に生産した

猿投窯は愛知県名古屋市東部から豊田市西部、瀬戸市南部にかけて広がる、日本を代表する古窯跡群です。その最大の特徴は、古墳時代後期(5世紀)から鎌倉時代初期(14世紀)まで約900年という長期間にわたって焼き物を生産し続けた点にあります。約20km四方に1000基を超える窯跡が集中しており、日本三大古窯の一つとして古代日本の窯業史において極めて重要な位置を占めています。
参考)猿投窯とは

猿投窯の特殊性は、朝鮮半島から5世紀半ばに伝えられた須恵器の技術を基盤として、大陸から舶載される青磁の国産化を目指したハイテク窯であった点です。この過程で、日本初の高火度施釉陶器である「猿投白瓷(さなげしらし)」、つまり灰釉陶器を生み出しました。9世紀初頭には焼成前に釉を刷毛塗りする技法が現れ、緑釉陶器とともに本格的な施釉陶器生産を開始しています。
参考)猿投窯 - Wikipedia

生産品目は祭器・仏具・香炉・各種硯・飲食器などの高級品に限られており、平城京・平安京をはじめ、寺社・官衙・豪族などの支配層に供給されました。このような背景から、猿投窯は官窯、もしくは官の意向が強く反映された官窯的性格の窯であったと考えられています。立地的にも要衝にあたり、陸路・海路によって運ばれた灰釉・緑釉の須恵器が各地の寺院から出土しています。​

猿投窯の須恵器生産技術

 

猿投窯における須恵器生産は、朝鮮半島から伝わった先進技術を基盤としています。須恵器は従来の日本にはなかった技術で、それ以前の縄文・弥生土器・土師器が赤みのある軟質土器であったのに対し、須恵器は1000℃を超える高温で焼かれた硬質の土器です。​
製作方法は、手びねりとロクロで成形し、地下に穴を掘った穴窯で作品を焼くというものでした。従来の500℃~800℃で焼く軟質土器に対して、須恵器は高温の還元焼成で焼かれたため、灰色~黒褐色の硬く焼き締まった器肌が特徴となっています。無釉焼き締め(炻器)と灰釉を用いた作品がそれぞれ出土しており、土器でありながら炻器とも陶器とも分類できる点が須恵器の興味深い特性です。​
猿投窯の立地条件も生産技術を支える重要な要素でした。猿投丘陵は斜面が緩やかで森林からは薪などの燃料が確保しやすく、さらに陶磁器に向く良質な粘土包含層が多数見つかっているため、登り窯を築くのに最適な環境だったのです。この良質な粘土の層は、古代に濃尾平野から伊勢湾にまで広がっていた「東海湖」に由来するものとされています。
参考)古代窯から愛知の発展を辿る。鈴木俊晴が見た、「知られざる古代…

猿投窯の須恵器生産技術と歴史的背景について詳しい解説(参考リンク:猿投窯の概要と技術的特徴)

猿投窯の灰釉陶器と緑釉技術

猿投窯における灰釉陶器の生産は、日本の陶磁史において画期的な出来事でした。8世紀代には意図的に炎の近くに製品を置いて自然釉がかかりやすくした「原始灰釉陶器」が出現していましたが、9世紀初頭に本格的な生産が開始されました。
参考)灰釉陶器 - Wikipedia

灰釉陶器の技術的特徴は、藁などの植物灰を原料にした釉が施され、暗緑色から鮮緑色を呈する点にあります。釉の溶ける温度が緑釉陶器よりはるかに高く、強く焼き締まるために緑釉陶器より硬質です。製作には水簸(すいひ)した白色粘土を用いて精巧に轆轤成形され、肩に意識的に灰釉が塗られました。
参考)猿投灰釉手付壺 - MIHO MUSEUM

器種は椀・皿・段皿・蓋・鉢・壺・手付瓶・水瓶・浄瓶・圏足円面硯・風字硯など多岐にわたります。奈良時代末期から平安後期にかけて、猿投窯で一貫して生産された主な製品は「白瓷(しらし)」と呼ばれていた灰釉の陶器で、生産された灰釉陶器は平安京をはじめ全国各地に流通しました。
参考)瀬戸と猿投(さなげ)900年を超える歴史と1,000基以上の…

緑釉陶器の生産も9世紀初頭から始まり、その焼成技術を応用して本格的な灰釉陶器の生産を開始しています。色調を効果的なものにするために、素地を選別して耐火度の高い白色粘土を使用するようになりました。
参考)古代の焼き物 緑釉陶器と灰釉陶器|名古屋市博物館

灰釉陶器の技術と歴史について詳細な情報(参考リンク:灰釉陶器の生産技術と全国への流通)

猿投窯の山茶碗生産期

平安時代末期から鎌倉時代にかけて、猿投窯の生産体制は大きく変化します。11世紀終わり頃、猿投窯をはじめ東海地方の窯業地は施釉技法を一時的に放棄し、無釉の碗である「山茶碗」の生産に転換しました。
参考)山茶碗 - Wikipedia

山茶碗は灰釉陶器の系譜を引き、美濃・尾張・三河・遠江などの窖窯で生産された無釉陶器です。須恵器のような灰色の器で、高台部分に籾殻の跡が見られるのが特徴です。これは整形して乾燥させる段階で、乾燥台とくっついてしまうことを防ぐために分離材として籾殻を台に敷いたため残った痕跡です。
参考)ココロオドル鹿嶋を再発見vol.16~実は貴重な山茶碗!~

山茶碗の生産は、それまでの高級品から日常雑器への転換を意味していました。生産された窯跡の周辺で日常雑器として使われ、その流通範囲は窯跡の半径30kmともいわれています。猿投窯では12世紀中頃から14世紀初めまで山茶碗が生産され、鎌倉時代に入ると瀬戸窯の施釉陶器が隆盛となり、猿投窯の生産は次第に衰微していきました。
参考)https://www.city.aichi-miyoshi.lg.jp/material/files/group/35/56-60.pdf

興味深いことに、この東海地方の日用品である山茶碗が、遠く離れた関東地方の鹿嶋市内でも出土しており、当時東海地方から鹿嶋地域へ人が移動してきた証拠と考えられています。​

猿投窯から瀬戸・常滑への技術伝播

猿投窯の技術は、周辺の窯業地に大きな影響を与えました。その規模の大きさにより、近隣の常滑・瀬戸をはじめ多くの窯業地に技術が伝播し、日本の窯業発展の基礎を築いたのです。
参考)瀬戸焼とは?その魅力と歴史、特徴など詳しく解説 href="https://waknot.com/local/1953" target="_blank">https://waknot.com/local/1953amp;#8211…

瀬戸焼の起源は、5世紀後半に現在の名古屋市・東山丘陵周辺で須恵器の生産を行っていた猿投窯にさかのぼります。10世紀後半から瀬戸市でも灰釉陶器の生産が始まり、これが瀬戸窯の成立とされています。平安時代中期に入ると、猿投窯の技術などが受け継がれた窯を使い、灰釉陶器が誕生しました。
参考)https://ichi-point.jp/setoyaki/

9世紀末から10世紀末にかけて、猿投窯で創出された灰釉陶器の技術は瀬戸や常滑へ伝播し、「平安灰釉」と呼ばれる最初期の施釉陶器生産が始まりました。この技術伝播により、東海地方は平安時代において灰釉陶器や緑釉陶器といった施釉陶器生産の一大中心地となっていきます。​
猿投窯の分布する良質な粘土の層は、後に瀬戸や常滑の礎として、さらにはノリタケやLIXILといった現代企業へと結実することになります。古窯の話になると「○○窯は猿投窯の流れをくんだ」といったフレーズがよく出てくるほど、日本の窯業地の発祥および古窯を知る上で猿投窯は非常に重要な存在です。​
瀬戸焼の成立と猿投窯からの技術継承について(参考リンク:瀬戸焼の歴史と特徴)

猿投窯発見の歴史的経緯

猿投窯の本格的な発掘がなされるまで、この地での窯業の実態は十分に把握されていませんでした。1957年頃までは「知られざる」存在であり、それ以前は瀬戸や常滑よりも遡る窯業の歴史については空白のままでした。​
発見のきっかけは1957年に始まった愛知用水の大規模工事でした。古陶磁の研究家でもあった本多静雄は、工事に伴い沿線の古窯跡が次々と破壊されるのを憂い、持ち込まれる出土品を買い集めました。その中に人工釉と思しき陶片があるのに気付いた本多は国に働きかけ、まもなく名古屋大学の考古学教室が中心となり大規模な発掘調査が行われることになりました。​
調査の結果、それまで瀬戸・美濃の中世窯が発生とされていた灰釉陶器窯が次々と姿を現し、空白であった奈良~平安期の陶磁史が一気に埋められる大発見となりました。名前の由来については、黒笹の窯跡に立った調査団が「後から後から見つかるかもしれんから、広い名前がよかろう。ここから見ると猿投山の頂上が見えている」として「猿投山西南麓古窯址群」、略して「猿投古窯」と命名されました。​
しかし、その後の発掘調査により窯跡の分布が尾張東部から西三河西部であることが判明し、遠く離れた猿投山麓周辺の中世瀬戸系の窯と混同されやすくなったという、やや紛らわしい経緯もあります。それでも猿投窯の発見は、日本の古代陶磁史研究に革命的な影響を与えた出来事として高く評価されています。​

猿投窯と他古窯群との比較

猿投窯の規模と稼働期間は、他の主要な古窯群と比較しても際立っています。日本三大古窯の一つである大阪南部の陶邑窯(すえむらよう)は5世紀から10世紀ごろまで、東西15km南北9kmの範囲に約1000基以上の窯跡を持ち、奈良時代以前の窯業の中心地として最大規模を誇っていました。​
福岡県の牛頸窯(うしくびよう)は6世紀半ばから9世紀ごろまで、4km四方の範囲に約300基以上の窯跡を持つ規模でした。これらと比較すると、猿投窯は5世紀から14世紀ごろまでの約900年間、20km四方に約1000基以上という、規模と期間の両面で突出した存在だったことがわかります。​
特に注目すべきは、8世紀中葉に日本最大の須恵器生産地であった陶邑窯が衰退すると、それと対応するかのように猿投窯が陶器生産の中心地として発展し始めた点です。貢納品として平城京へ数多く運ばれるようになったのもこの頃からで、日本の窯業の中心が西日本から東海地方へ移行する歴史的転換点となりました。​
猿投窯が生産した灰釉陶器は、遠く離れた関東地方でも出土しており、奈良・平安時代の集落遺跡からは猿投窯の須恵器や施釉陶器が見つかることがあります。灰釉陶器は高級品であり当時としては入手困難な品であったことから、猿投窯の製品が広域に流通し、権威や富の象徴として扱われていたことがうかがえます。このような全国規模での影響力は、他の古窯群と比較しても猿投窯の特筆すべき特徴といえるでしょう。​