京都府亀岡市稗田野町鹿谷に位置する大谷鉱山は、日本のタングステン採掘史において極めて重要な位置を占める鉱山です。明治末期に銅鉱山として始まり、大正3年(1914年)から粟村鉱業所株式会社によってタングステン鉱山として本格的な開発が進められました。この鉱山の最大の特徴は、灰重石(CaWO4)を主要鉱石として採掘していた点で、タングステンの産出量は国内最大規模を誇りました。
参考)大谷鉱山および行者山の錫・タングステン鉱脈|京都府レッドデー…
鉱山は戦時中の軍事需要や戦後の復興期、高度成長期の需要に左右されながら、休山と再開を繰り返しました。昭和14年(1939年)には日本で初めて浮遊選鉱(石鹸浮選)を採用するなど、技術面でも先進的な取り組みを行っていました。昭和58年(1983年)8月31日に会社破産法の適用により閉山するまで、月産3000トンの粗鉱を処理する規模で操業していました。
参考)大谷鉱山 (京都府) - Wikipedia
現在、鉱山跡地の多くは閉鎖または崩壊していますが、かつての鉱山事務所跡地には石材加工場が建設され、行者山の花崗岩は鞍馬石石材の代用として採石されています。近隣には桜石(菫青石仮晶)で有名な積善寺や桜天満宮があり、鉱区を胚胎している花崗岩体は桜石とも地質的な関連が深いとされています。
大谷鉱山の鉱床は、丹波帯Ⅰ型地層群を貫く約3km四方の行者山花崗閃緑岩体中に形成されています。地質調査所の研究によれば、この岩体は化学組成では花崗閃緑岩に分類され、K-Ar年代で93.0±3.7Ma(百万年前)、Rb-Sr年代で98.9±4.2Maという測定結果が得られており、貫入時期は白亜紀中頃(セノマニアン期頃)と推定されています。
鉱脈は花崗岩体中の右横ずれの破砕作用によって発生した北北東系の割れ目を、灰重石・黄銅鉱・磁硫鉄鉱・石英脈が充填する形態をとっています。主要な鉱脈の走向はN20°EとN40°Eで、脈幅は1.5m~5.5m、傾斜は70度以上という急傾斜の構造です。特にN40°E方向の鉱脈が主要で、脈幅は1.5m、延長は700mに達し、雁行状に配列していました。
参考)地質調査研究報告 Vol.53 No.5/6 (2002)|…
岩体北西部の神前地区では鉱脈群が80以上も確認され、露頭部でも坑内でも錫石がかなり多く認められました。行者山の採石場では、花崗岩中にグライゼン化した大量の白雲母を伴う石英脈がしばしば発達しており、径数mmの灰重石や錫石が含まれています。脈際には"グライゼン"変質が見られ、これは高温熱水による変質作用の証拠とされています。
地質調査総合センターの大谷鉱山に関する詳細な地質研究報告
大谷鉱山の主要鉱石は灰重石(Scheelite, CaWO4)で、モリブデン(Mo)の含有量が極めて微量であることが大きな特徴でした。この純度の高さが、大谷鉱山のタングステン鉱石の品質を際立たせていました。灰重石には黄褐色のものと黄白色のものが産出され、いずれも白雲母と密接な共生関係を示していました。
錫石(Cassiterite, SnO₂)は大きな結晶が産することで鉱物愛好家の間で有名です。透明感のある茶色い錫石のシャープな結晶が特徴的で、金紅石と同じ構造を持ち、錐面を持つ短柱状の形態を示します。神前地区の鉱脈群では特に錫石の産出が多く、現在でも神前方面に流れる小川の砂礫から錫石の結晶を採集することが可能です。
参考)301 Moved Permanently
その他の主要な鉱石鉱物として、磁硫鉄鉱、硫砒鉄鉱、黄銅鉱、黄鉄鉱、閃亜鉛鉱、黄錫鉱などが確認されています。脈石鉱物としては白雲母、蛍石、電気石、方解石、石英などが存在し、現在までに66種類以上の鉱物が確認されています。この多様性が、大谷鉱山を鉱物学的に重要な産地としています。
大谷鉱山の中でも特に注目すべきは、行者山山頂の西方約500mに位置していた繁恵坑です。この坑道は多種類の鉱物を産出することで知られ、鉱物愛好家の間で一躍有名になった産地でした。繁恵坑が特に注目を集めた理由は、ベルトラン鉱(Bertrandite)が発見されたためです。
参考)大谷鉱山 繁恵坑 : 理学部のゴミ箱(副題 鉱物才集日記)
ベルトラン鉱はベリリウム(Be)を含む珪酸塩鉱物で、日本で初めて本地域から発見されたという歴史的な意義を持っています。透明で板状の結晶形態を示すこの鉱物の発見は、大谷鉱山の鉱物学的価値を一層高めました。その他にも繁恵坑付近では、緑柱石(ベリル、白色柱状)や白雲母(白色板状)なども産出されています。
参考)https://trekgeo.net/m/0kyo.htm
しかし、京都府の資料によれば、繁恵坑のズリは「現在採集は困難」とされています。鉱山の閉山から長い年月が経過し、坑口の多くが崩壊して埋まったり閉鎖されたりしているためです。一部の立坑坑口は存在しているものの、かつてのように豊富な鉱物標本を得ることは難しくなっています。それでも、鹿谷から神前に至る南北方向の林道に沿って、少数ながら鉱物の採集は可能な状況です。
大谷鉱山の歴史は、日本の近代産業史を反映しています。明治末期に銅鉱山として始まった採掘は、大正3年(1914年)に伊丹の山本太一が経営する銅山を譲り受け、粟村鉱業所がタングステンの採鉱を開始したことで大きく転換しました。第一次世界大戦や第二次世界大戦において、タングステンは戦略物資として軍事需要が高く、この時期に鉱山は大きく発展しました。
参考)https://ameblo.jp/gmgwwmd0/entry-12675320607.html
昭和10年(1935年)には粟村鉱業所株式会社として法人化され、昭和14年(1939年)には日本で初めて浮遊選鉱(石鹸浮選)という先進的な選鉱技術を採用しました。この技術革新により、処理効率が大幅に向上しました。昭和22年(1947年)には終戦に伴い一時操業を停止しましたが、昭和26年(1951年)には選鉱場を大規模に再構築して操業を再開しています。
昭和46年(1971年)にはカドミウム問題への対策として集中浄水装置を設置するなど、環境対策にも取り組みました。昭和50年(1975年)頃には化学精錬工場を設置し、低品位鉱や委託鉱を処理して人工シーライトやパラタングステン酸アンモニウムを生産していました。1978年当時の規模は月産3000トンの粗鉱を処理し、さらに山口県喜和田鉱山の粗鉱250トンも陸送で受け入れて処理していました。従業員は約100人という規模でした。
現在、大谷鉱山は昭和58年(1983年)の閉山から40年以上が経過し、京都府により「消滅寸前」というカテゴリーに分類されています。過去の鉱害問題の影響もあり、鉱山の再開の見込みはありません。坑口の多くは崩壊して埋まったり、安全上の理由から閉鎖されたりしていますが、一部の立坑坑口は現在も存在しています。
鉱山跡地の一部はソーラーパネル基地として開発されており、かつての鉱山の面影は徐々に失われつつあります。一方で、かつての鉱山事務所跡地には石材加工場が建設され、行者山の花崗岩は「丹波鞍馬」として鞍馬石石材の代用品として採石が続けられています。
鉱物採集に関しては、鹿谷から神前に至る南北方向の林道沿いで可能ですが、種類は限られています。神前方面に流れる小川の砂礫からは、今でも錫石の結晶を採集できるとされています。敷地内には鉱山で犠牲となった方々への供養のため、石材屋が建てた弁財天が立っています。鉱山の社宅と思われる古い長屋も残されており、蔦が繁茂した建物が閉山から長い年月が経過したことを物語っています。
京都府は、かつての鉱山跡地として整備し保存する努力が必要であるとしており、また採石場で新たな鉱脈や石英脈が露出した場合には保存する手立てが必要だと指摘しています。地下の鉱脈については閉山により保存された状態になっていますが、地表の鉱脈露頭や鉱物を含む石英脈露頭は消失する可能性があり、今後の保存対策が課題となっています。