花岡鉱山歴史から閉山まで黒鉱採掘と戦時労働の軌跡

秋田県大館市で発見された花岡鉱山は、黒鉱鉱床として日本屈指の規模を誇り、藤田組による買収から同和鉱業への発展、そして戦時中の悲劇的な出来事を経て1994年の閉山に至るまで、約110年もの歴史を刻みました。鉱山技術の革新と暗い過去が交錯するこの鉱山の物語を、あなたはどこまで知っていますか?

花岡鉱山歴史概要

花岡鉱山の歩み
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発見と初期開発

1885年に秋田県で発見され、良質な黒鉱鉱床として注目を集めた鉱山

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大規模開発期

1916年の堂屋敷鉱床発見により日本有数の鉱山へと発展

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閉山と跡地活用

1994年に採算性の問題で閉山し、環境技術の拠点として生まれ変わる

花岡鉱山発見と初期開発の経緯

花岡鉱山は1885年(明治18年)に秋田県北秋田郡花岡村で発見された鉱山です。発見当初は主に銀を採掘していましたが、その後の調査で良質な黒鉱鉱床であることが判明しました。黒鉱とは閃亜鉛鉱や方鉛鉱を主体とする特殊な鉱石で、亜鉛や鉛のほか、金や銀などの貴金属も含まれています。

 

参考)花岡鉱山 - Wikipedia

初期の花岡鉱山では慶年坑方面の鉱床や堤沢南方の鉱床が小規模に稼行されていました。1914年(大正3年)には花岡鉱山が専用鉄道を開設し、翌1915年(大正4年)に藤田組(後の同和鉱業の前身)が鉱山と鉄道を買収しました。この買収により、花岡鉱山は本格的な開発段階へと移行することになります。

 

参考)花岡鉱山

この時期の鉱山開発は比較的小規模でしたが、地質調査や試掘が進められ、より大きな鉱床の発見に向けた準備期間となりました。初期開発における技術的な蓄積が、後の大規模開発の基礎となったのです。

花岡鉱山黒鉱鉱床の特徴と鉱物資源

花岡鉱山の黒鉱鉱床は南北2000メートル、東西1200メートルの鉱区内に大小12の鉱床が存在する大規模なものでした。主要な鉱床には慶年鉱床、櫻鉱床、観音堂鉱床、西観音堂鉱床、落合澤鉱床、七ツ館鉱床、堂屋敷鉱床、神山鉱床、堤沢鉱床、元山鉱床、大山鉱床、稲荷沢鉱床などがありました。

黒鉱鉱床の特徴的な構造は、上部から黒鉱、黄鉱、珪鉱へと変化する層状構造です。上部の黒鉱は閃亜鉛鉱、方鉛鉱、重晶石を主体とし、中部の黄鉱は黄銅鉱、黄鉄鉱からなり、最下部の珪鉱は石英を主とし自然金や黄鉄鉱を含んでいます。この累帯構造は、海底に噴出した初生黒鉱が低温から高温、そして再び低温へと変化する熱水系により変質作用を受けて形成されたものです。

 

参考)趣味の話題 ~「楽石庵閑話」~【第11話】花岡鉱山松峰鉱床の…

花岡鉱山の黒鉱は銀品位が高いことでも知られており、地表近くの鉱床では硫化鉱物が地下水により溶脱され、残存部の銀品位がさらに高くなった鉱石が産出しました。これにより、花岡鉱山は石見銀山と並ぶ銀山としても開発された歴史があります。

 

参考)成因別鉱床(熱水性鉱床:海底噴気熱水鉱床):山口大学工学部 …

花岡鉱山堂屋敷鉱床発見と大規模開発

花岡鉱山の歴史における最も重要な転機は、1916年(大正5年)の堂屋敷鉱床の試錐による発見でした。この発見は翌1917年(大正6年)に確定し、花岡鉱山を全国でも屈指の大規模鉱山へと押し上げることになります。

 

参考)花岡鉱山(はなおかこうざん)とは? 意味や使い方 - コトバ…

堂屋敷鉱床発見後、次々と新しい鉱床が発見されていきました。1919年(大正8年)には神山鉱床、1924年(大正13年)には七ツ館鉱床が発見され、鉱山の生産規模は飛躍的に拡大しました。1916年には鉱石輸送のために大館駅から松峯駅、花岡駅を結ぶ専用鉄道が藤田組によって普通鉄道として開業し、大量輸送体制が整えられました。

 

参考)花岡鉱山とは - わかりやすく解説 Weblio辞書

1928年(昭和3年)からは黒鉱選鉱が開始され、各種物理探鉱も行われるようになりました。1930年(昭和5年)には神山に1日100トンの処理能力を持つ銅・鉛・亜鉛の優先浮遊選鉱場が完成し、本格的な近代的選鉱技術が導入されました。この時期の技術革新により、花岡鉱山は日本の黒鉱鉱山技術の最先端を走る存在となったのです。

 

参考)重金属汚染対策

産業技術総合研究所 地質調査総合センター - 黒鉱鉱床の地質学的研究に関する詳細情報

花岡鉱山戦時中の労働と花岡事件

太平洋戦争中、花岡鉱山は軍需物資の確保のため無理な増産を強いられ、乱掘が行われました。1944年(昭和19年)5月には七ツ館鉱床の上部を流れる花岡川が陥没する落盤事故が発生し、七ツ館鉱床と堂屋敷鉱床の下部坑道が水没する大事故となりました。

陥没した花岡川の架け替え工事には、強制連行された中国人労働者が動員されました。1944年から1945年にかけて、日本は中国人戦争捕虜と労働者986人を強制連行し、秋田県の花岡鉱山で過酷な労働を強いました。劣悪な労働条件と虐待により、多くの死者が続出する状況となりました。

 

参考)施泳公使、「花岡事件」中国人殉難者慰霊式に出席_中華人民共和…

1945年6月30日深夜、過酷な労働や虐待による死者の続出に耐えかねた約800人の中国人労働者が一斉蜂起しました。これが「花岡事件」です。労働者たちは日本人補導員を殺傷して逃走しましたが、1週間後には全員が連れ戻され、共楽館前の広場で炎天下に三日三晩放置されるという凄まじい拷問を受けました。蜂起とその後の拷問により、合計で419人もの中国人労働者が犠牲となりました。

 

参考)WebOPAC システム・メッセージ

この事件の請負元であった鹿島組(現・鹿島建設)は戦後、この事実を認め、公式に謝罪と和解を行いました。花岡事件は日本の戦時労働における最も悲劇的な出来事の一つとして記憶されています。

大館市公式ウェブサイト - 花岡事件に関する慰霊と歴史継承活動の情報

花岡鉱山戦後の技術革新と支山開発

戦後、花岡鉱山は新たな発展期を迎えました。松峰鉱山、深沢鉱山(1969年鉱床発見)、餌釣鉱山(1975年鉱床発見)など支山の開発に注力し、鉱山の操業範囲を拡大していきました。

技術面では人工天盤下向充填採掘法やトラックレス鉱石運搬方式など、さまざまな新技術が導入されました。特に松峰鉱床で採用された人工天盤による下向充填採掘法は、黒鉱の標準採掘法として確立され、日本の鉱山技術の革新を象徴するものとなりました。1967年に本格稼働を始めた松峰坑の諸設備と坑内技術は、従来の鉱山のイメージを一新する近代的なものでした。

選鉱技術においても大きな進歩がありました。世界でも有名な難処理鉱である黒鉱(KUROKO)を、独自技術の発展により効率的に処理する選鉱技術が確立されました。松峰選鉱工場では銅鉛分離加温浮選という革新的な方法が開発され、従来の青化ソーダによる分離に代わる環境に優しい方法として大きな成果を上げました。この技術は選鉱成績の改善だけでなく、環境問題や金・銀の溶解問題も解決する画期的なものでした。

 

参考)https://mric.jogmec.go.jp/public/report/1988-04/No2_jp.pdf

1980年代には粗鉱採掘量が年間約84万トンに達し、鉱石は小坂、細倉(宮城県)、彦島(山口県)の各精錬所に送られ、金、銀、銅、鉛、亜鉛、硫化鉄、マンガンなどに精錬されました。花岡鉱山は国内屈指の鉱山として約80年にわたり活躍し続けたのです。

花岡鉱山閉山と跡地活用の現在

花岡鉱山は長年にわたり日本の金属資源供給を支えてきましたが、1994年(平成6年)に採算性の問題から採掘を終了し、閉山しました。この閉山により、秋田県の花岡鉱山をはじめとする国内の稼行銅鉱山はなくなり、日本の鉱山産業における一つの時代が終わりました。閉山の主な理由には鉱源の枯渇、地下深い部分での採鉱の保安上の問題、貿易の自由化や為替変動相場制への移行などの経済情勢の変化がありました。

 

参考)足尾銅山に関するよくある質問/日光市公式ホームページ

閉山後、花岡鉱山の跡地は新たな形で活用されることになりました。選鉱工場と鉱水設備を活用して汚染土壌の無害化処理が行われるようになり、選鉱技術を駆使して廃家電製品の解体・選別による有価金属の回収事業も展開されました。DOWAエコシステムグループとして、鉱山で培った選鉱技術を環境ビジネスに応用し、重金属汚染対策の専門企業として生まれ変わったのです。

 

参考)https://www.cee.ehime-u.ac.jp/~dokai/dayori/20170510_15thEzawakai.pdf

露天掘り跡地については、一時期首都圏のゴミ焼却灰の埋め立て処分が行われていました。しかし2011年(平成23年)の福島第一原子力発電所事故により飛散した放射性セシウムを含む焼却灰が関東地方など6県から持ち込まれていたことが判明し、トラブルとなりました。

現在、花岡鉱山跡地では洗浄・分級・磁力選別・泡沫浮上・抽出などの技術を用いた重金属汚染土壌の処理が行われています。浮遊選鉱法や比重分離法を用いて、鉛汚染土壌からの鉛回収や、セレン・ヒ素・鉛汚染土壌からの有害物質回収など、環境保全に貢献する事業が展開されています。約110年の歴史を持つ花岡鉱山は、資源採掘の時代から環境技術の拠点へと、新たな役割を担い続けているのです。

DOWAエコシステム - 花岡鉱山.dowa-geo.jp/">DOWAエコシステム - 花岡鉱山の選鉱技術を応用した環境事業の詳細