アントワン式は1888年にLouis Charles Antoineによって提案された蒸気圧に関する実験式です。この式は温度と蒸気圧の関係を表現する数式として、化学工学分野で100年以上にわたり使用され続けています。式の構造は log₁₀p = A - B/(T+C) で表され、pは蒸気圧、Tは温度を示します。A、B、Cは物質固有の定数で「アントワン定数」と呼ばれ、蒸気圧と温度の単位によって値が変わります。
水のアントワン定数は、圧力単位にmmHg、温度単位にセルシウス度を使用した場合、A = 8.02754、B = 1705.616、C = 231.405となります。これらの定数を用いることで、任意の温度における水の蒸気圧を精度よく計算できます。例えば25℃の水の飽和蒸気圧を計算すると約3.1×10³ Paとなり、これは湿度計算や気液平衡の解析に不可欠なデータです。
アントワン式が広く使用される理由は、理論式であるクラウジウス-クラペイロンの式よりも実測値との一致が良好であることです。クラウジウス-クラペイロンの式にはいくつかの仮定が含まれるため、実際の蒸気圧との誤差が生じやすくなります。一方、アントワン式はパラメータが3つと少なく、比較的広い温度範囲で高い精度を維持できるため、実用的な応用に適しています。
アントワン式を用いた水の蒸気圧計算は、以下の手順で実施します。まず温度Tをセルシウス度で準備し、アントワン定数A、B、Cの値を確認します。次に式 log₁₀p = 8.02754 - 1705.616/(T+231.405) に温度値を代入します。計算結果は常用対数で表されるため、10を底とする指数に変換することで蒸気圧p(mmHg単位)が得られます。
実際の計算例として、温度100℃における水の蒸気圧を求めてみましょう。log₁₀p = 8.02754 - 1705.616/(100+231.405) = 8.02754 - 5.144 = 2.883となります。これを指数に変換すると p = 10^2.883 ≒ 763 mmHg となり、1気圧(760 mmHg)に近い値が得られます。これは水が100℃で沸騰する事実と整合します。
温度範囲によっては、アントワン定数の値が異なる場合があることに注意が必要です。多くの物質では測定温度範囲に応じて複数のアントワン定数セットが存在します。水の場合、0〜100℃の範囲では上記の定数が有効ですが、より高温や低温では別の定数セットを使用することで精度が向上します。化学工学便覧などの専門書には、温度範囲別の詳細なアントワン定数が掲載されています。
アントワン式は混合溶液の気液平衡計算において中心的な役割を果たします。2成分系の気液平衡では、各成分のアントワン式から求めた蒸気圧を用いて、ラウールの法則やヘンリーの法則と組み合わせることで、任意の温度における液相組成と気相組成の関係を導出できます。この計算は蒸留塔の設計や分離プロセスの最適化に不可欠です。
具体的な気液平衡計算では、液相のモル分率x₁、x₂が与えられた時、全圧Pが一定という条件下で平衡温度と気相のモル分率y₁、y₂を求めます。各成分の分圧p₁、p₂をアントワン式で計算し、P = p₁×x₁ + p₂×x₂ = 一定となる温度をゴールシーク機能などで探索します。気相モル分率はy₁ = p₁×x₁/Pで算出され、x-y線図の作成が可能になります。
水とエタノールの混合系は、アントワン式を用いた気液平衡計算の典型例です。両成分のアントワン定数を使用し、各液相組成における平衡温度と気相組成を計算することで、蒸留における理論段数の決定や還流比の最適化が行えます。このような計算は化学プラントの設計段階で繰り返し実施され、エネルギー効率の高いプロセス構築に貢献しています。
ケミカルエンジニアのための化工計算サイトでは、Excelを使った気液平衡計算の詳細な手順が解説されています
アントワン式による水の蒸気圧計算は、湿度や露点温度の算出にも応用されます。相対湿度は、ある温度における実際の水蒸気圧と飽和蒸気圧の比で定義されます。飽和蒸気圧はアントワン式から直接求められるため、気温と相対湿度が分かれば実際の水蒸気圧が計算でき、逆に露点温度も導出できます。
湿球温度の計算においても、アントワン式は重要な役割を担います。湿球温度とは、水で湿らせた温度計が示す温度で、蒸発による冷却効果を反映します。断熱冷却過程での相対湿度の変化を計算する際、各温度でのアントワン式による飽和蒸気圧を用いて、湿球温度における相対湿度が100%になる条件を求めます。
空気調和や乾燥プロセスでは、湿り空気線図の作成にアントワン式が活用されます。25℃で湿度100%の空気中には、アントワン式から計算される飽和蒸気圧に対応する量の水蒸気、約23mg/Lが含まれます。この値は理想気体の状態方程式と組み合わせて算出され、空調設備の設計や食品乾燥装置の性能評価に用いられます。温度と湿度の制御が重要な製造現場では、アントワン式による精密な水蒸気圧計算が品質管理の基盤となっています。
アントワン式は鉱物学の分野でも意外な応用があります。水熱合成法による鉱物の生成では、高温高圧下での水の蒸気圧が反応条件を決定する重要な因子となります。例えば、含水鉱物であるアンチゴライト(蛇紋石の一種)の脱水反応を研究する際、反応温度における水の蒸気圧をアントワン式で推算し、実験条件の設定に役立てます。
地球科学の研究では、スラブ(沈み込むプレート)内部での鉱物の脱水反応が注目されています。蛇紋岩メランジュの研究において、高圧変成作用下での水の挙動を理解するため、アントワン式を拡張した高圧下の蒸気圧式が使用されます。これにより、マントルウェッジでの元素移動や火山活動のメカニズム解明に貢献しています。
膜蒸留プロセスでは、蒸気圧差が質量移動の駆動力となります。この分野の研究では、従来アントワン式による飽和蒸気圧を仮定していましたが、実際の非平衡状態では計算値と実測値に差が生じることが確認されています。純水だけでなく、臭化リチウム溶液や塩化カルシウム溶液など各種水溶液の実際の水蒸気圧を測定した結果、温度上昇とともに飽和蒸気圧との差が拡大することが判明しました。このような知見は、水処理技術や海水淡水化プロセスの効率向上に活かされています。
アントワン式は3つのパラメータで構成される簡便な式ですが、いくつかの限界も存在します。まず、適用可能な温度範囲が限定されており、範囲外では精度が急激に低下します。また、臨界点近傍や非常に低温域では、より複雑な5定数式や状態方程式による推算が必要となります。物質固有の定数を必要とするため、新規化合物や未測定物質には直接適用できないという制約もあります。
近年のプロセスシミュレータでは、アントワン式に代わってより高精度な蒸気圧式が採用される傾向にあります。例えば、Wagner式やCoxチャートによる方法は、広い温度範囲で高い精度を実現します。しかし、これらの手法も結局は物質固有のパラメータを必要とするため、未知化合物への対応という根本的な課題は残ります。
この問題に対処するため、分子構造から物性を予測する手法の開発が進められています。機械学習を用いたアプローチでは、化合物の構造情報からアントワン定数を推算する試みがなされていますが、精度の向上には課題が残ります。一方で、基礎物理パラメータのみを用いた理論的な蒸気圧式も提案されており、Gibbsの自由エネルギーの等しさを利用した式は、標準的な熱力学的仮定と整合性があり、経験的フィットと同等以上の精度を示すことが報告されています。こうした新しいアプローチは、化合物スクリーニングや新規材料設計において重要性を増しています。