1920年8月10日、第一次世界大戦後の講和条約として、連合国とオスマン帝国の間でセーヴル条約が結ばれました。この条約はフランスのパリ郊外にあるセーヴルで締結されたことからこの名が付けられています。条約の骨格は同年4月のサン・レモ会議で決定されており、オスマン帝国にとって非常に過酷な内容でした。
参考)セーヴル条約
セーヴル条約の主な内容として、以下の点が挙げられます。
この条約によって、オスマン帝国は西アジアとほとんどすべてのヨーロッパ領土を失い、小アジアの一小国に転落することになりました。特筆すべき点として、セーヴル条約ではクルド人自治区の設置が謳われており、クルド人の独立が認められる予定でした。
参考)セーヴル条約 - Wikipedia
セーヴル条約の過酷な内容に対し、ムスタファ・ケマル(ケマル・アタテュルク)が率いるアンカラのトルコ大国民議会は条約の廃棄を宣言しました。ケマルは独自に兵力を集めてギリシア軍を撃退し、イタリア軍やフランス軍も自発的に撤退する中で、着実に内外での評価を高めました。
参考)ローザンヌ条約
1922年11月、ケマルは政教分離を掲げてスルタン制の廃止を宣言し、トルコの実権を掌握しました。同月、アンカラ政府は連合国と新しい講和条約の交渉に入り、1923年7月24日にスイスのローザンヌで調印されました。この条約は全143条に及び、領土問題、経済関係、少数民族の扱いまで幅広く網羅していました。
参考)ローザンヌ条約の内容─セーヴル条約との違いを理解しよう
重要な点として、セーヴル条約ではスルタン政権が署名したのに対し、ローザンヌ条約ではアンカラ政府(実質の国家権力)が署名しており、これは正統政府の入れ替わりを国際社会が承認したことを意味しています。
セーヴル条約では、オスマン帝国の領土は連合国によって大規模に分割されました。この分割は、第一次世界大戦中からの連合国間の秘密協定に基づいて実施されました。具体的には、1916年のサイクス・ピコ協定などが背景にあり、中東地域の石油資源や戦略的要地を巡る欧米列強の利害が反映されていました。
領土分割の具体的な内容は以下の通りです。
この過酷な条約は、オスマン帝国をコンスタンティノープル(イスタンブール)付近とアナトリアの一部のみに押し込めるものでした。陶器や食器の生産で知られたイズニックなどの重要な文化的拠点も、事実上外国の支配下に置かれる可能性がありました。
ローザンヌ条約により、トルコは失われた領土の大部分を回復することに成功しました。具体的には、イズミル(スミルナ)、イスタンブル、東トラキアなどの領土を取り戻しました。この条約により、現在のトルコ共和国の国境線が確定し、アナトリアと東トラキアの確保が実現しました。
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主権回復の主な内容は以下の通りです。
ダーダネルス・ボスポラス海峡については、国際海峡委員会のもとで各国に開放されましたが、沿岸部のトルコ主権は承認されました。この点は後の1936年のモントルー条約でさらに改善されることになります。
参考)ローザンヌ条約(ローザンヌじょうやく)とは? 意味や使い方 …
セーヴル条約とローザンヌ条約の最も重要な違いの一つが、クルド人の扱いです。セーヴル条約では、クルド人自治区の設置が明確に謳われており、場合によっては独立も認められる予定でした。イギリスはクルド民族国家構想を1920年のセーヴル条約に盛り込んでいました。
参考)JIIA -日本国際問題研究所-
しかし、ローザンヌ条約ではこの権利について一切触れられず、クルド人の独立は取り消されました。トルコのケマル・アタテュルクがクルド人の独立を拒絶した結果、セーヴル条約は破棄され、クルドとアルメニアの独立をご破算にしたローザンヌ条約が新たに締結されました。
参考)クルド民族、闘争の歴史
この結果、クルド人の居住領域はイラク、トルコ、イラン、シリアの国境で分断されることになりました。ローザンヌ条約ではセーヴルで謳われたアルメニア建国やクルド自治がすべて削除され、「勝てば自決は認められない」という現実的な国際政治の構図が示されました。ローザンヌ条約の内容に失望したクルド人は1924年から連続して反乱を起こし、この問題は現在に至るまで中東地域の不安定要因として残り続けています。
参考)トルコ・クルド紛争 - Wikipedia
興味深いことに、オスマン帝国の領土問題は、陶磁器文化とも深く関わっています。オスマン帝国時代、ブルサ近郊のイズニックでは15世紀後半から約2世紀にわたって盛んに陶器生産が行われていました。イズニック陶器は、中国からの陶磁器貿易の影響を強く受けながら独自の発展を遂げた文化遺産です。
参考)http://www.tufs.ac.jp/common/fs/asw/tur/theses/1997/hamamoto/tez-hamamoto.html
9世紀から10世紀には、中国産の陶磁器が主要な貿易商品として西アジアに流入しました。オスマン帝国は東西の中継貿易に力を入れており、イタリアの都市国家との地中海貿易を通じて陶磁器を含む多くの商品を取り扱っていました。こうした陶磁器の交易路は、オスマン帝国の繁栄を支える重要な経済基盤でした。
参考)繁栄を極めたオスマン帝国は、西洋の脅威により滅亡へ向かう (…
セーヴル条約によってイズミル周辺がギリシアの影響下に置かれることになった場合、こうした伝統的な陶器生産地域も外国の支配下に入る可能性がありました。しかしローザンヌ条約による領土回復により、トルコはイズニックを含む重要な文化的拠点を保持することができました。これにより、トルコの伝統的な陶磁器文化は途絶えることなく、現代まで継承されることになりました。
陶磁器という視点から見ると、ローザンヌ条約は単なる政治的な領土回復にとどまらず、オスマン帝国からトルコ共和国へと引き継がれる文化遺産の保全という意味でも重要な転換点だったのです。