13世紀のヴェネツィア商人マルコ・ポーロは、1271年から24年間にわたってアジアを旅し、その見聞を『東方見聞録』として残しました。この旅行記には、中国における磁器づくりの盛んな様子が詳しく記されており、ヨーロッパ人に初めて東洋の陶磁器文化を紹介する重要な役割を果たしました。
参考)5分でわかる東方見聞録!マルコ・ポーロの伝えた内容、元寇など…
マルコ・ポーロは泉州(当時ザイトンと呼ばれていた)を訪れた際、中国陶磁器の品質と価格について具体的な記録を残しています。『東方見聞録』には「泉州の磁器は質が良く、その値段は安い。ヴェネツィア銀のコイン1枚で、磁器のコップを8個買える」という記述があり、当時の中国陶磁器の優れたコストパフォーマンスを伝えています。
参考)マルコ・ポーロと陶磁器の東西交流と影響
彼は単に陶磁器を見ただけでなく、その製造工程についても詳しく観察していました。中国の陶工たちが粘土を成形し、釉薬をかけ、高温で焼成する様子を目の当たりにし、その技術の高さに驚嘆したことが記録されています。磁器のことを「ポーセリン(porcelain)」と呼ぶようになったのも、マルコ・ポーロが中国の旅行記の中で、白い殻を持つ軟体動物にちなんで「porcella(ポルチェラ)」と最初に報告したことが起源とされています。
参考)http://www.trankiel.com/groningermuseum-aziatisch-j.html
イタリアのサン・マルコ大聖堂には、「マルコポーロの壺」と呼ばれる貴重な磁器が現存しています。これは約700年前にマルコ・ポーロが中国の福建省泉州市から持ち帰った磁器で、徳化県で製作されたものです。この壺は東西文化交流の象徴として今日も大切に保存されています。
参考)マルコポーロの目に映った「東洋最大の港町・泉州」とは?--人…
徳化県は特に高品質な白磁の産地として知られており、その製品は「徳化窯」として今日も高く評価されています。徳化窯の白磁は白玉や象牙のような乳白色の美しさが特徴で、器肌は半透明で白玉のような感じがあります。明代の白磁の美しさは特に素晴らしく、茶器類やちょっとした雑器などもその美しさを十分に感じられるものでした。
参考)https://www.mingei-okumura.com/fs/mingei/c/dehua
泉州は13世紀当時、東洋最大の港町として繁栄していました。泉州に隣接する徳化県の磁器は、海のシルクロードを通じて世界各地へ輸出されており、「メイド・イン・チャイナ」が世界の流行を牽引していました。マルコ・ポーロは、インドから欧州へとコショウを運ぶ船が1隻だとすると、泉州に運ぶ船は100隻になるだろうと分析しており、当時の泉州の国際交易における重要性を示しています。
マルコ・ポーロが持ち帰った陶磁器は、当時のヨーロッパでは見たこともないような品質と美しさを持っていました。『東方見聞録』は、当時のヨーロッパ人にとって未知の東洋世界を知る貴重な情報源となり、中国の陶磁器に対する憧れと関心を高める重要な役割を果たしました。
1298年にマルコ・ポーロが書いた『東方見聞録』によって、ヨーロッパに初めて東洋の磁器の製造方法が紹介されました。この本が出てから200年後、ヨーロッパでは東洋の磁器への憧れが高まり、王侯貴族たちは中国磁器を珍重しました。オランダ東インド会社設立後、船によって中国磁器が大量にヨーロッパに入ってくるようになり、一大中国ブームが起こりました。
参考)食器・洋食器<ナルミ公式オンラインショップ>鳴海製陶公式オン…
1709年には、ヨーロッパで初めて白磁の製造に成功したマイセン窯が誕生しました。それまで磁器は東洋から輸入されたものばかりで、王侯貴族のみが手にできる大変な貴重品でした。マルコ・ポーロが持ち帰った陶磁器の価値は、単にその美しさや珍しさだけではなく、東洋の高度な技術と美意識をヨーロッパに伝える文化的な架け橋となり、後のヨーロッパの陶磁器産業に大きな影響を与えることになりました。
参考)https://ptmsic.in/?_g=420639
『東方見聞録』は全4巻で構成されており、日本に関する記述は3巻に登場します。マルコ・ポーロは日本を「黄金の国ジパング」として紹介しましたが、実は彼は日本を訪れたことはありませんでした。東方見聞録におけるジパングは「カタイ(中国大陸)の東の海上1500マイルに浮かぶ独立した島国」とされ、「莫大な金を産出し、宮殿や民家は黄金でできているなど、財宝に溢れている」との記述から、多くの人々がジパングへの空想を膨らませました。
参考)黄金の国ジパングと日本が呼ばれた理由|中尊寺金色堂との関係と…
ジパングという呼称は、中国南部の方言で日本国を意味する「ji-pen-quo(ジーペングォ)」に由来していると考えられており、『東方見聞録』では「Cipangu(チパング)」と表記されています。この記述が世界に日本を示した最初の記録とされています。
参考)日本が「黄金の国ジパング」と呼ばれるのはなぜ?金の価値は今な…
「黄金の国ジパング」の噂は、当然のことながらモンゴル帝国の王であるクビライ・カーンの下にも届いていました。マルコ・ポーロが元(モンゴル帝国)でフビライに仕えていた時期は、モンゴル軍と北条時宗率いる幕府軍が戦っていた元寇の時代と重なります。『東方見聞録』の記述が、後の大航海時代にコロンブスをはじめとする多くの探検家たちを東方への冒険に駆り立てる原動力となりました。
参考)https://www.oricon.co.jp/article/1432007/
マルコ・ポーロが伝えた中国陶磁器の文化は、現代の私たちの食卓にも深く根付いています。磁器の歴史は総じて言えば、中国と世界各地の双方向の学び合いの歴史でした。アジアや欧州の多くの地域の職人が中国の磁器づくりに学び、各地の業者は時代や地域によって異なる市場ニーズに対応しようと努力しました。
参考)中国生まれの「磁器」は世界に何をもたらしたのか—専門家が歴史…
19世紀にヨーロッパで磁器生産の産業化が進むと、製品が大量に市場に出回り、中国製磁器の販売もある程度まで圧迫されるようになりました。すると中国の窯元は20世紀初頭になり、西洋式の生産ラインや経営方法を取り入れ、規模が大きな磁器工場を設立するようになりました。
現代の磁器づくりでも開かれた心で学習を続けることが重要です。中国製磁器は世界各地の窯元を刺激し、世界各地の磁器の作り手は自らの能力を高めて新たな製品づくりに努力しています。日本や欧州で作られた良質な磁器が、今度は中国の業者を刺激し、中国の業者は外国で作られた製品を参考にして新たな磁器を作り出しています。このような循環は、今後も継続させる価値があり、人類社会の発展とは模倣と革新で成り立つことを示しています。
陶器や食器を日常的に使う私たちにとって、マルコ・ポーロの『東方見聞録』が果たした役割は単なる歴史的事実ではありません。東西の文化交流によって磨かれてきた陶磁器の技術は、現在も進化を続けており、私たちの食卓を彩る器の一つ一つに、700年以上前から続く文化の結晶が息づいているのです。