織部焼は、桃山時代の慶長10年(1605年)頃に現在の岐阜県土岐市付近の美濃窯で誕生した陶磁器です。名称の由来となった古田織部(本名:古田重然)は、美濃国出身の戦国武将であり、後に茶の湯の世界で名を馳せた大名茶人でした。
古田織部は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と三代の天下人に仕えた稀有な経歴の持ち主です。武将としても「山崎の戦い」や「賤ヶ岳の戦い」などで活躍し、その功績により豊臣秀吉から「従五位下織部正」という役職を授かり、以後「織部」を名乗るようになりました。
茶道の世界では、千利休の高弟として知られ、利休の死後は茶の湯の第一人者として朝廷、貴族、寺社、豪商にまで影響力を持ちました。江戸時代に入ると、徳川幕府二代将軍・徳川秀忠の茶道指南役も務めています。
しかし、「大坂夏の陣」の際に、自らの身内や家臣が敵の豊臣方に内通していたという嫌疑をかけられ、徳川家康から切腹を命じられました。72歳でその生涯を閉じた古田織部の亡骸は京都の大徳寺に葬られました。師匠の千利休と同じく、時の権力者の怒りを買い、命を落とすという悲劇的な最期を遂げたのです。
織部焼は美濃焼の一種として分類されますが、その特徴は他の焼き物とは一線を画しています。最大の特徴は、透明釉に酸化銅を呈色剤として加えた鮮やかな緑色の釉薬「織部釉薬」を大胆に掛け分けた点にあります。この緑釉は、南蛮貿易によって中国南方からもたらされた華南三彩の交趾焼(こうちやき)を参考にしたと言われています。
形状においても、それまでの焼き物が円形を基本としていたのに対し、織部焼では長方形、菱形、舟型、扇型など多様な形が採用されました。さらに、わざと形を歪ませた「沓形(くつがた)」の茶碗など、従来の常識を覆す造形が特徴的です。
装飾の文様も非常に斬新で、市松模様や格子状といった幾何学模様を多く取り入れています。また、自然をモチーフにした草花や鳥などの絵付けも、のびやかな筆致で描かれ、現代の抽象画を思わせるような大胆さがあります。
織部焼は主に以下の種類に分類されます。
これらの織部焼は、連房式登窯(れんぼうしきのぼりがま)を用いて大量生産されましたが、同じ作りや同じ模様で描かれたものはほとんどなく、一つ一つが異なる個性を持っています。
織部焼の製作には、九州の唐津焼で用いられていた連房式登窯(れんぼうしきのぼりがま)が導入されました。これは美濃の陶工・加藤景延が大量生産を目的として取り入れたとされています。この窯の導入により、それまでよりも効率的に陶磁器を焼成することが可能になりました。
代表的な窯としては元屋敷窯が挙げられ、慶長年間(1596-1615年)が最盛期とされ、この時期に最も優れた作品が多く生み出されました。織部焼が作られたのは安土桃山時代から江戸時代初期にかけてのわずか30年ほどという短い期間でしたが、その間に日本の陶芸史に大きな影響を与えました。
織部焼の製作工程は以下のようになります。
織部焼の技術は、現代の陶芸家たちにも受け継がれ、伝統的な技法を守りながらも、新しい解釈や表現を加えた作品が生み出され続けています。
織部焼は、茶の湯の世界と密接に結びついて発展しました。古田織部の師匠である千利休は「茶の道は自由闊達で創意工夫を凝らすべき。人真似をしてはならない」と説いており、織部はこの教えを忠実に実践しました。
利休の静謐さと対照的に、織部は動的な「破調の美」を追求し、それまでの茶の湯で好まれていた端正で慎ましい茶道具とは一線を画す、大胆で力強い茶器を好みました。この嗜好は「織部好み」と呼ばれ、当時の茶人たちの間で流行しました。
博多の豪商で茶人だった神谷宗湛は、織部屋敷での茶会で使われた黒織部茶碗を見て「ウス茶のトキ、セト茶碗ヒツミ候也。ヘウケモノ也」(薄茶をいただいたときの茶碗の形が歪んでいて、ひょうきんである)と日記に記しています。「へうげもの」とは、ユーモアや遊び心のある物を指す言葉で、織部焼の特徴を端的に表現しています。
織部は茶の湯において、単に一服の茶を静かに飲む「侘茶」の思想だけでなく、客と共に飲食を楽しむという要素も取り入れました。そのため、茶碗や茶入れといった茶道具だけでなく、向付(むこうづけ)、鉢、蓋物、徳利、猪口など、多彩な食器も織部焼として製作されました。
現代の茶道においても、織部焼は重要な位置を占めており、その独創的な美しさは多くの茶人たちを魅了し続けています。また、料亭や高級和食店でも織部焼の器が使われることが多く、料理を引き立てる器としても高い評価を得ています。
織部焼は、安土桃山時代の前衛的な焼き物でしたが、現代では古典作品として高い評価を受けています。多くの作品が重要文化財に指定されるなど、日本を代表する焼き物の一つとして認識されています。
収集家にとって、織部焼の価値を見極めるポイントは以下のようなものがあります。
現代の陶芸家たちも織部焼の意匠を受け継ぎ、伝統的な技法を守りながらも、自身の個性を活かした独特の作品を生み出しています。特に岐阜県の多治見市や土岐市などの美濃地方では、現代の織部焼を製作する窯元が多く存在し、伝統工芸として継承されています。
また、「本町オリベストリート」のような陶磁器の街並みでは、織部焼をはじめとする美濃焼の作品を購入することができます。多治見駅から徒歩15分ほどの場所にあり、約400mのエリアに陶磁器やアンティークショップ、カフェなどが軒を連ねています。
織部焼は単なる骨董品としてだけでなく、現代の生活の中で使用する実用的な器としても人気があります。その独創的なデザインは、現代のインテリアにも調和し、日常に彩りを添えてくれます。
織部焼の特徴をより明確に理解するために、同時代や関連する他の陶磁器と比較してみましょう。
まず、同じ美濃焼に分類される志野焼、黄瀬戸、瀬戸黒との比較です。志野焼は白い釉薬に赤や黒の鉄絵が特徴で、織部焼に先行して生まれました。実は織部焼の自由な造形や文様の傾向は、志野焼にすでに現れていたとされています。黄瀬戸は淡い黄色の釉薬が特徴で、瀬戸黒は黒釉を全体に施した重厚な印象の焼き物です。これらと比較すると、織部焼の緑釉の鮮やかさと造形の大胆さは際立っています。
次に、豊楽焼との関連性も興味深いものがあります。豊楽焼の三代・豊介の作品には、緑釉を掛け流した織部風の菓子器なども存在し、織部焼の影響が見られます。また、素焼きの陶器の上に岩絵具で絵付けを施し、金箔や銀箔で彩られた豊楽焼の作品は、織部焼とはまた異なる華やかさを持っています。
さらに、「木具写」と呼ばれる陶磁器には、陶胎(陶器のベース)と磁胎(磁器のベース)の2種類があり、外側は漆塗りと蒔絵で装飾されています。陶胎のものは中を見ると緑釉の掛け流しや鉄絵があり、織部焼の技法との共通点が見られます。
また、京都で焼かれていた「織部写し」と呼ばれる織部焼のコピーと見なされていた焼き物が、実は織部焼に先行していたという研究結果もあります。これは織部焼の起源に関する新たな視点を提供しています。
このように、織部焼は他の陶磁器と影響を与え合いながら発展してきました。その独自性は、単に緑釉という釉薬の特徴だけでなく、形状や文様、製作姿勢など多面的な要素から成り立っているのです。
以下の表は、織部焼と他の主要な陶磁器の特徴を比較したものです。
陶磁器の種類 | 主な釉薬の色 | 形状の特徴 | 文様の特徴 | 製作時期 |
---|---|---|---|---|
織部焼 | 緑(織部釉) | 歪み、非対称、多様な形 | 幾何学模様、大胆な絵付け | 1605年頃~ |
志野焼 | 白 | 比較的整った形 | 赤や黒の鉄絵 | 1570年頃~ |
黄瀬戸 | 淡黄色 | 整った形 | 控えめな文様 | 1580年頃~ |
瀬戸黒 | 黒 | 整った形 | ほとんどなし | 1580年頃~ |
豊楽焼 | 様々(無釉も) | 整った形 | 岩絵具、金銀箔 | 江戸時代 |
織部焼は、その独創的な美しさと歴史的背景から、日本の陶芸史において重要な位置を占めています。現代においても多くの陶芸家や茶人、料理人に愛され続け、日本の伝統文化の一端を担っているのです。