アウガルテンのマリア・テレジア オーストリアの陶磁器

 

アウガルテン マリア・テレジア

アウガルテン マリア・テレジアの種類

アウガルテン磁器工房において、マリア・テレジアに関連する主な製品は以下の通りです。

 

マリア・テレジアシリーズ
マリア・テレジアの狩猟の館であったアウガルテン宮殿のディナーセットとして、女帝への敬意を込めて作られた代表的な絵柄の一つ。1744年にマリア・テレジアの勅命でアウガルテンが王室直属の窯となって以来、作り続けられている伝統的なシリーズ。

 

オールドウィンナーローズ
1744年にマリア・テレジアの命によってアウガルテンが皇室直営の窯元になって以来作り続けられている伝統的なシリーズ。

 

その他
マリア・テレジアをモチーフにしたティーカップ&ソーサー(モーツァルト型)などの製品も存在する。

 

以上のように、アウガルテンではマリア・テレジアの名を冠したシリーズや、彼女の時代から続く伝統的なシリーズが複数存在し、300年以上にわたって受け継がれています。

マリア テレジアの逸話

マリア・テレジアはマリー・アントワネットの母親です。いくつかの興味深い逸話が残されています。

 

ハンガリー貴族への演説
1741年、オーストリア継承戦争の最中、マリア・テレジアは乳飲み子を抱えながらハンガリー貴族の前で演説し、協力を呼びかけたと伝えられています。この逸話は絵画にも描かれています。

 

貧しい女性の赤子に授乳
マリア・テレジアが街ですれ違った貧しい女性の赤子に母乳を与えたというエピソードを描いた絵画もあります。

 

恋愛結婚
当時の王侯貴族の慣例に反し、マリア・テレジアは小貴族のフランツ・シュテファンとの恋愛結婚が許されました。

 

シェーンブルン宮殿の外壁の色
夫のフランツ・シュテファンは外壁を金色にしたかったが、財政的に困難だったため、マリア・テレジアが黄色を提案したという逸話から、この色は「テレジア・ゲルプ」と呼ばれるようになりました。

 

これらの逸話からは、マリア・テレジアの母性愛や庶民への思いやり、恋愛を貫く強さ、実務的な判断力などがうかがえます。…が、これらの逸話の中にはプロパガンダ的な意図で作られたものもあると考えられています。

マリア・テレジアは何をした人?

物語風に紹介します。

 

ある日、ウィーンの宮殿で幼いマリア・テレジアが父に尋ねました。
「お父様、私はいつかこの国を治めることができるのでしょうか?」
父カール6世は優しく微笑み、娘の頭を撫でて言いました。
「もちろんだとも。お前なら必ずやこの国のために尽くしてくれるだろう。」

 

やがて23歳になったマリアは、父の死去により広大なハプスブルク家領を継承しました。しかし周辺国は女性の統治者を快く思わず、オーストリアに戦争を仕掛けてきたのです。
「私の正当な権利を認めぬとは何事か! 戦ってでも守り抜いてみせましょう。」
マリアは難局に立ち向かう決意を胸に秘めました。

 

オーストリア継承戦争の最中、マリアはハンガリーの議会に赴き、貴族たちの助力を求めます。
「皆の力を貸してください。共にこの国を守りぬきましょう!」
マリアの雄弁に感銘を受けた貴族たちは、彼女への忠誠を誓ったのでした。

 

戦争の結果、マリアはシュレジエン地方をプロイセンに割譲せざるを得ませんでした。しかし彼女はめげません。
「いつかシュレジエンを取り戻してみせる。そのためにはフランスとも手を結ぼう。」
こうしてマリアは宿敵フランスとの同盟を成し遂げ、外交革命を起こしたのです。

 

一方、16人もの子をもうけたマリアは、理想の母の姿でもありました。
「わが子たちよ、いつも正直に、そして慈悲の心を忘れずにおいで。」
子を思う母の愛情は、国民からも慕われる源泉となりました。

 

晩年、マリアはこう語ったといいます。
「私は最期の日に至るまで、誰よりも慈悲深い女王であり、必ず正義を守る国母でありたい。」
63年の生涯を閉じるまで、彼女はその言葉通りに生き抜いたのでした。

 

マリア・テレジア。ハプスブルク家が生んだ稀代の女傑は、今なおオーストリア国民の心に刻まれています。

 

マリア・テレジアの名を関したアウガルテンの磁器

 

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