ハプスブルク帝国における陶磁器の歴史は、18世紀初頭にさかのぼります。当時のヨーロッパでは、中国から輸入される磁器が高価な贅沢品として珍重されていました。1709年にドイツのマイセンでヨーロッパ初の硬質磁器の製造に成功したことを受け、ハプスブルク帝国でも磁器製造への関心が高まりました。
1718年、ハプスブルク帝国の皇帝カール6世の認可を受けた宮廷軍務官デュ・パキエが、オーストリア領内で25年間の磁器製造・販売の独占権を得て、ウィーン工房を設立しました。これはヨーロッパで2番目に設立された磁器工房であり、民間では初の試みでした。
しかし、デュ・パキエ自身は磁器の製造技術を持っていなかったため、マイセンから絵師のクリストフ・フンガーを引き抜きました。さらに1719年には、マイセン窯で白磁の焼成に携わっていたサミュエル・シュテルツェルを高額な報酬で招き、ようやく硬質磁器の製造に成功します。シュテルツェルはマイセンから逃亡し、門外不出だった磁器製造法を伝授し、マイセンでも使用された磁土をウィーンでも入手できるよう手配しました。
このようにして始まったハプスブルク帝国の陶磁器産業は、豪華な装飾とヨーロッパの風景、狩猟、神話、花々などを精緻に描いた作品で評判を呼びましたが、製造コストに見合う利益を上げることができず、工房は経営難に陥りました。
ハプスブルク帝国の陶磁器産業が真の輝きを放ち始めたのは、マリア・テレジアの時代からです。1744年、父カール6世の後を継いだマリア・テレジアは大公妃として帝国の実権を握り、経営難に陥っていたデュ・パキエの工房を皇室が買い上げました。
工房はハプスブルク皇室直属の窯に命じられ、「インペリアル ウィーン磁器工房」として新たなスタートを切りました。この時から、工房で作られる全製品にハプスブルク家の紋章である横2本の盾が商標として焼き付けられるようになりました。当初は刻印でしたが、1750年からはブルーの染付で釉薬下に書かれるようになりました。
芸術を愛したマリア・テレジアは窯に多額の出資をし、当時流行していたロココ風の作品を作らせる一方で、対照的に自然主義的な作品も生み出されました。この時代は「ロココ時代」と呼ばれ、この時期の磁器はコレクターに絶大な人気があります。
ウィーン磁器工房は皇室からの庇護と支援に感謝し、マリア・テレジアの狩猟の館であるアウガルテン宮殿の完成を記念して食器セットを寄贈しました。これが現在も「マリアテレジア」シリーズとして知られ、アウガルテンを代表するパターンとして世界中で愛されています。
この時代のモチーフの特徴は、製品の中央に一輪の大きな花を配し、その周りに小花を描くデザインが多く見られました。また、ロココ芸術を代表するフランスの画家ワトーの手掛けた風景画や人物画なども盛んに制作されました。
ハプスブルク帝国の陶磁器史において、ヘレンド窯の存在は特筆すべきものです。ヘレンドが創業したハンガリーは、オスマントルコとハプスブルク帝国に支配された歴史を持ち、他のヨーロッパ諸国に比べて近代化が1世紀ほど遅れていたといわれています。
1826年、ヴィンツェ・シュティングルがのちのヘレンド窯となる工房を開き、民芸風陶器を焼きながら磁器製造の実験を続けました。しかし成功せず、1840年に債権者モール・フィッシャーに工房は売却されました。フィッシャーは豊富な資金を活用して生産性の改良や技術の向上に努め、ついに磁器製造に成功し、本格的な生産を可能にしました。
1842年にはハンガリー産業博覧会で銅賞を獲得し、翌年には工場が全焼するという不運に見舞われたものの、フィッシャーは年内に工場を再建しました。その後、大衆向けの磁器生産も始め、1844年には博覧会で金賞を獲得。マイセンやセーヴルなどの名窯磁器に肩を並べる高級品の生産と海外輸出を行う方針を定めました。
ヘレンドとハプスブルク帝国の関係が深まったのは、1851年のロンドン万国博覧会がきっかけでした。この博覧会では、ハプスブルク帝国内にあった19の磁器製作所のうちヘレンド窯だけが金賞を受賞しました。この成功を受けて、ハプスブルク家のフランツ・ヨーゼフ1世は娘の公女ゾフィーのためにティーセットを注文しました。皇帝はロンドンの万国博覧会で一等賞を受賞したフィッシャーに対して、ウィーンの王宮で騎士勲章を授けています。
19世紀半ばになると、順調な繁栄を続けてきたウィーン磁器工房にも陰りが見え始めました。ボヘミアの磁器産業やハンガリーのヘレンドが頭角を現し、皇帝が宮廷で使う食器もウィーン磁器工房から他の窯元に移っていきました。
ウィーン磁器の芸術的水準は1830年代から低下し始め、市民階級向けにビーダーマイヤー様式のティーセットやコーヒーセット、小さな装飾品を大量に製作するようになりました。しかし、外国の磁器産業に押され気味となり、1862年のロンドン万国博覧会以降、注文は途絶え、1864年に閉鎖へと追い込まれました。
ヘレンド窯の歴史において、この1864年にウィーン窯が閉鎖したことは極めて大きな意味を持ちました。ハプスブルク皇帝は、すでに廃業していた帝室磁器製作所が所有する特許パターンの権利までもヘレンドに委譲し、かつてのライバル窯が消えていく中で、ヘレンドの世界的名声は高まるばかりでした。
しかし、ウィーン磁器工房の歴史はここで終わりませんでした。1923年、マリア・テレジアの狩猟館「アウガルテン宮殿」を改造して、ウィーン磁器工房はアウガルテンとして復活します。この「アウガルテン宮殿」は、ハプスブルク家が華やかなりし頃、モーツァルト、ベートーベン、ヨハン・シュトラウスなどの音楽家たちを招いて一族のためにコンサートを開いた場所でもあり、現在では500年以上の長い歴史を持つ「ウィーン少年合唱団」の宿舎ともなっています。
ハプスブルク帝国の陶磁器文化は、現代にも多くの芸術的遺産を残しています。特に注目すべきは、皇室の庇護のもとで発展した高度な技術と芸術性です。
アウガルテンの魅力は、工房内での独自の粘土の調合と熟成が実現した滑らかで艶やかな白磁と、ハプスブルク家のお膝元でもあった芸術の都ウィーンの華やかな文化の中で生み出された様々なパターンの絵付にあります。現在でも、すべての絵付けはハンドペイントで行われているといわれています。
一方、ヘレンドは19世紀半ばの産業革命の時代に、機械による生活用品の生産が普及し始めていた中で、あえて手作業による高品質な磁器製造にこだわりました。イギリスでは工場で生産された安価な大量製品に対して、中世の熟練した職人技を復活させようとするアーツ・アンド・クラフト運動が起こっており、こうした中でヘレンドの古風な技法への執着や品質の高さへの厳しいまでの要求は、時代の先端を行くものとなりました。
ブダの王宮の巨大な建物は、第二次世界大戦で大規模な破壊を受けましたが、再建された王宮の壮麗な建物群には、現在4つの文化施設が入っています。ヘレンドは、皇室御用達として、王侯貴族や諸外国との外交のための豪華な贈答品の製造者として、ハプスブルク家と関わってきました。
ブダの王宮用に作られた磁器の他にも、ゲデレーの宮殿のティーセットやコーヒーセット、悲劇の主人公になったメキシコ皇帝マキシミリアンのためにイタリアのトリエステ近郊に作られたマラマーレ宮殿用のセット、ウェールズ公へ贈られたティーセットなど、数多くの逸品を皇帝一家のために製作してきました。
ハプスブルク帝国の陶磁器文化は、単なる工芸品の域を超え、帝国の権威と芸術への愛、そして時代の美意識を反映した貴重な文化遺産となっています。現在でも、アウガルテンやヘレンドの磁器は世界中のコレクターや美術愛好家から高い評価を受け、その美しさと歴史的価値は色あせることなく受け継がれています。
ハプスブルク帝国の陶磁器文化と日本の磁器文化には、意外な相互影響関係があります。17世紀から18世紀にかけて、オランダ東インド会社を通じて日本の伊万里焼や有田焼がヨーロッパに大量に輸出され、ハプスブルク家を含むヨーロッパの王侯貴族の間で「白い金」として珍重されました。
この日本の磁器に影響を受け、ヨーロッパ各地で日本風の磁器、いわゆる「シノワズリ(中国趣味)」や「ジャポニズム(日本趣味)」の作品が生まれました。特にアウガルテンの「カラフル・シノワズリ」は、東洋の意匠を西洋の感性で解釈した興味深い作例です。
一方、明治時代以降の日本では、西洋化政策の一環として、ヨーロッパの陶磁器技術を積極的に取り入れました。1876年に設立された農商務省勧業寮製陶試験場(現在の京都市産業技術研究所工業技術センター)では、ウィーン窯やマイセンの技術を参考に、日本の伝統的な陶磁器に西洋の技術を融合させる試みが行われました。
また、明治政府は1870年代にウィーンで開催された万国博覧会に日本の陶磁器を出品し、その芸術性の高さが評価されました。この交流を通じて、日本の磁器技術とハプスブルク帝国の磁器技術の間には、相互に影響を与え合う関係が生まれたのです。
現代では、日本の陶芸家がウィーンやブダペストで研修を受けたり、逆にハンガリーやオーストリアの陶芸家が有田や京都で技術を学んだりする交流が続いています。このように、ハプスブルク帝国と日本の陶磁器文化は、時代と国境を超えて影響を与え合い、それぞれの陶磁器文化を豊かにしてきたのです。
日本の茶道具としても、ヘレンドやアウガルテンの小さな磁器が使われることがあり、東西の陶磁器文化の融合の一例となっています。また、日本の骨董市場では、ハプスブルク帝国時代の陶磁器が高値で取引されることもあり、日本人コレクターの間でも人気があります。
このように、ハプスブルク帝国の陶磁器と日本の磁器文化は、遠く離れた地域でありながら、互いに影響を与え合い、それぞれの文化を豊かにしてきた歴史があるのです。